手術から約1年後、義母の言動がだんだんおかしくなっていったんです。

言いたい言葉が出てこない。
物の名前が思い出せない。
人の名前も思い出せない。
次第にイライラしていく義母。

病院の先生は再発とは言わず、一度は小さくなった腫瘍が、また言語中枢に触れ出したのだと。
また入院になり、治療が始まりましたが、この頃からは何をしても以前ほどの変化は見られませんでした。

 


私は、自分の家、仕事場、夫の実家、義母の病院と、合計60キロの距離を、毎日通う日々が始まりました。
自分の家で夫の食事を作り、実家で義父と弟の食事を作り、病院に義母の顔を見に行って、洗濯物に追われ、義母の話し相手をし、家に帰ります。

介護をしている人はよく言われますが、「このトンネルはいつ抜けられるんだろう?」と真剣に思いました。

義母のことは大好きだったので、看病自体はつらくなかったんです。
でも、義母のおむつを替えているときに、「看護婦さん、ありがとう」と言われたときは、さすがにつらいものがありました。

義母は、自分の夫(舅さん)や息子(私の夫や弟たち)のことは覚えていましたが、私のことはすっかり忘れてしまっていました。

いつ行っても、「看護婦さん、ありがとう」と言われ、「いいえ、早く元気になりましょうね」と話していたのを覚えています。まぁ、嫁にいって7年ほどでしたし、仕方ないのかもしれませんが。

そして、亡くなる3ヶ月ほど前から、自宅看護となりました。


つづく。