Hi♡みなさんニコニコ


お久しぶりです。mikeyですイルカ

今日も備忘録です✎


最近のわたしのテーマの1つに

「信じる」

があります。


まずは

じぶんを信じること。

これを宣言してから、楽器の技術があがったのが体感できました。

わたしはいつもじぶんを疑っていたので、

昨日出来たことが今日はできないんじゃないか。って恐れていたんですね泣き笑い

だからある日急に、昨日まで読めてた当たり前の音符が読めなくなったりしてたくらいひどかったんだけど、

それがでてこなくなりました。

他にもね、

「わたしを信じる」と思っていれば

大抵のことは怖くなくなりました。

行いについては「お天道様はみている」って自然と思えるし

恋愛で相手を疑うこともなくなりました。

「わたしのことを大切にしているわたしが惹かれた人だもの。」と思えるからです。

そして

将来の心配より、わくわくが大きくなりました。


次に

「まわりを信じること」

信じる。ということのvibesが、

信じたことで傷つくとか、ばかをみるとか、

そんな次元ではないと体感的に理解できるようになりました。


目に視えるものも

耳で聴くものも

肌に感じるものも

事実ではあっても真実ではないことがある。


心と事実がちぐはぐなときこそ、

心の響くほうの世界の住人でいよう、と決めました。 

そして人を必要以上に疑うことはやめよう、と思いました。



なぜって。

わたしが今まで「信じてる」と思ってきた事象は

ほとんどの場合、

「期待を裏切らない」

「わたしの描いている通りになる」

「違った結果にはならない」ことだったんじゃないかはてなマーク絶望

と氣づいたからです。


「信じてる」「信じたい」って言葉を

「思い通りになるはずだ」と

ほぼ同義語として用いてはいなかったか、、?と

じぶんに疑問を投げかけました。

例えば

「周囲を信じる」

ーわたしの希望通りの振る舞いをしてくれる、

わたしの困らない方向に事は運ぶだろう、

そんな風にイメージしてたような、、無気力

「じぶんを信じる」

ーじぶんの期待通りの結果が出せると念じよう、、みたいな凝視

「結果を信じている」とはまさにその通りで

これはほぼ願掛けに近い昇天


本当の「信じる」とは

すべて「わたしを信じる」ということ。


人からの評価が恐ろしくなったときは

「普段のじぶんを信じる」

彼の心を疑ったときも

「この人を好きになったじぶんを信じる」

物事の結果を願うときは

「じぶんは必ずいい方向へ向かっている。そういうvibesをもった人間だということを信じる」


信じる、とは

他人に圧をかける言葉でも

他力本願の現れでも

力尽くで現実を変えようとする力でもない。


未来からの流れと

過去のじぶんの行いを

自身の系譜として

純粋に、そしてかるーーーく、「大丈夫」と言えること。

手放していること。


「信じる」というvibesは

今までじぶんが「そうだ」と定義づけてきたものとはずいぶん違うのもかもしれない。

そう思った夜でしたオーナメント


読んでくれてありがとうニコニコ

Hava nice Dreamお月様