Vol.133 『進んだ時計』


剛君はおおらかな性格です。

もっと言ってしまえば、

だらしない、でしょうか。


剛君は今でこそ独身生活を謳歌していますが、 

以前は奥さんがいたこともあります。

そう、離婚したのです。


原因は「時計」でした。

剛君は、壁や書斎やダイニングに、

それぞれかけられた時計が、

少しずつ狂って、

てんでに進むのを、

全く気にしていませんでした。

むしろ、それを面白がっている風さえありました。


反して、元奥さんは、

どの時計も、きっちり正しい時間を指していないと、

嫌な性格だったのです。


しかし、剛君は全ての時計がどれくらい進んでいるかを、 完璧に把握していました。

だから、時計が進んでいても、

ちっとも困らなかったのです。


いっぽう元奥さんは、専業主婦でしたので、

毎日家に居ますから、

時計がてんでに狂っているのが嫌でたまりませんでした。


そこである日、剛君が会社にいる時間に、

総ての時計を正しい時刻に直してしまったのです。


帰ってきた剛君は、玄関の置時計をみて、

首を傾げました。

「ただいま。あれ、まだこんな時間かい?電車は定刻どおりだったけど」

元奥さんは言いました。

「お帰りなさい。時計みんな直しておいたわ」


普段は温厚な剛君が、

このときばかりは怒りました。

「なんで勝手なことするんだ!これから毎日困るじゃないか」

元奥さんも負けていません。

「時計がバラバラなのって気持ちが悪いのよ。長く家に居るのはあたしなのよ?」


怒った剛君は、一度は帰ってきたのに、

着替えもせず、浅草に飲みに行ってしまいました。


一晩あそんで、次の日帰ると、

奥さんの姿はなく、

きれいに片付いたテーブルに、

奥さんがサインした離婚届けが置かれていました。


こうして剛君はシングルになったのです。

今は思う存分、時計の進むに任せています。


しばらく時が経ちました。

剛君が直そうとしないので、

いちばん進んだ時計は50分さきを示していました。


さらに日々が経つと、なんと時計は3時間も進んでいます。

剛君が年老いて、会社を定年で辞める頃は、

12時間進んでいました。


さすがの剛君も、今が昼なのか夜なのか、

分からなくなってきました。

そうして懐かしく思い出すのは、

離婚した元奥さんです。

あのきっちりした性格は、

今も健在だろうか。


ある晩、剛君は焼酎の酔いで威勢を借りて、

元奥さんに電話をしました。


「あ、久しぶり。俺わかる?」

「分かるわよ、もちろん。どうしたの、こんな時間に」

「あのさあ、今から飲みに来ない?旨い焼酎があるんだ」

「いいわね。あたしも退屈してたから、行くわ」


再会した元奥さんは、さすがに白髪がまばらにありました。

剛君も、いまやお腹も出て、若い頃の面影はありません。


二人でしばらく焼酎を飲みましたが、

剛君は突然、土下座して言いました。

「お願いだ。この家の時計を、ぜんぶ正しい時間にしてくれないか」

それは復縁を含んでのお願いでした。


元奥さんは、何も言わずに立って、

家じゅうの時計を正しい時間に直しました。

そうして剛君のそばに、

ニコニコして座りました。


ここに新たな老夫婦が誕生しました。

この二人の行く末は、

この家の時計たちだけが、 見届けることでしょう。