Vol.90 『ライオン愛』
メスライオンのヒメちゃんは、
以前、夫のオスライオンのハヤトさんと、
仲睦まじく、この動物園で暮らしていました。
ヒメちゃんとハヤトさんの夫婦愛は有名でした。
ヒメちゃんはハヤトさんの長い舌で、
グルーミングしてもらうのが大好きで、
目を細めて、
またときにはハヤトさんのほうをじっと見つめて、
グルーミングしてもらっていました。
また、ハヤトさんが怒らないと分かっているので、
ハヤトさんの背中にのしかかって、体重をかけ、
背中に爪を立てたりします。
オスライオンが本気で怒れば、
メスライオンに勝ち目はありませんが、
ヒメちゃんはハヤトさんが機嫌のいいときを見計らい、
狩りの訓練のようなことをするのです。
でもあんまり痛いときは、
ハヤトさんはヒメちゃんに、
「ヒメや、痛いよ。」とこぼすのですが、
ヒメちゃんはしれっとして、
「これぐらい我慢してくださいな。爪がうずいてねえ」
などと言います。
それでもヒメちゃんを愛しているハヤトさんは、
変わらずヒメちゃんのグルーミングをしてあげるのでした。
あるとき、少し離れた場所に、
「ライオンカフェ」という甘味処が出来たと聞き、
ハヤトさんとヒメちゃんは行ってみたくなりました。
至っておとなしいライオン、
ということで、
動物園の園長先生は、
ハヤトさんとヒメちゃんの外出を許しました。
少し遠いこともあり、ハヤトさんとヒメちゃんは、
運搬車のカタログを、
園長先生に取り寄せて貰いました。
ハヤトさんとヒメちゃんは、2匹並んで寝そべって、
ライオンの大きな手で、
カタログをめくっては、微笑み交わしました。
ほどなくして、残念なことが分かりました。
少し先の国道が狭くなっていて、
運搬車が通れないのです。
ハヤトさんとヒメちゃんは、
甘いものが大好きでしたので、
ライオンカフェで2匹並んで、
親方に特注して、
牛骨大の大福を食べるのが夢でした。
2匹のランデブーはならず、
特にヒメちゃんはがっかりしましたが、
ハヤトさんは、いつもより念入りにグルーミングして、
ヒメちゃんを慰めるのでした。
そんな優しいハヤトさんでしたが、
ここのところ食欲がなく、
痩せてきました。
ヒメちゃんは心配して、
飼育員さんに貰ったごはんを、
ハヤトさんに勧めたりしました。
食いしん坊のヒメちゃんなのに、です。
ある日、獣舎で目覚めたヒメちゃんは、
ハヤトさんがいないのに気付きました。
放飼場に行ってみると、
大自然を恋うように、
放飼場に倒れているハヤトさんを見つけました。
ヒメちゃんは、近寄ると、
何度も何度もハヤトさんをグルーミングしました。
何度も、何度も。
でも、ハヤトさんはもう目を開けません。
…あれから何年経ったでしょう?
ハヤトさんの死を乗り越えたヒメちゃんは、
今日も一人ぼっちで放飼場にいます。
ずいぶん歳をとってしまいましたが、
動物園に来る子供たちを、
相変わらず喜ばせています。
ただ、ヒメちゃんはハヤトさんのグルーミングだけが懐かしいのです。
「ハヤトさん」
そう呼ぶと、虚空を見上げます。
放飼場に、サアっと風が渡りました。
そう、ちょうどハヤトさんがグルーミングするように、
ヒメちゃんの頬を撫でていったのです。
ヒメちゃんは、「ありがとう」と言うと、
虚空を見上げて微笑みました。