おはようございます。
今日も暑そうです。
おけぴが出張から今夜戻って来ます。
掃除機をかけ
買い物に行き
お顔きれきれにして![]()
何時もの暮らしに寄せて行きます。
今日1日穏やかに過ごせます様に。
鬱病になり、文字がダブらず読める様になってから
小説はもとより、新書や病気の本を片っ端から読んで行きました。
加藤諦三さんの本はよく読みました。
読むのも好きですが
影響も受けやすく?
描かれてあるコトについつい自分を当てはめ
自らヘルメットを被る作業をしてしまいます。
或る本の一章節に
立派ということは、
精一杯生きることなのである。
とありました。
ふむふむ。成る程。
と、おもむろにヘルメット被ります。
今の私は精一杯生きていない。
ゆえに、生きている価値はあるのか?
既に、極端な思考ですね…笑
うつ病の人に見受けられる認知の歪み
例えば
このパターンの私なら
⭕️白黒思考
物事を極端に捉えて、完璧にこだわってしまう
⭕️拡大解釈、過小評価
自分の失敗や短所は大袈裟に解釈し
褒められた事や長所は過小に評価する
その通りなのだけれど
これって、鬱病になったからこの様な思考に
なったのでは無く
もともとの性格が、こんなんでしたけど…
と、先生方にはお伝えして来ました…笑
気になり始めると、そこからぐるぐる🌀思考に入る。
診察時、先生に問う。
精一杯生きると言うのは、
どうしたらいいのでしょう。
こう言うコトをいきなり聞くってコトが既に…
先生は、何時もの様に
飄々と感情をのっけずにさらりと話される。
「今、精一杯生きていませんか?
入院して、見知らぬ土地に来て一人で暮らしている。
デイケアにきちんと通っている。
精一杯生きていますよ。」
私は、これでいいのかと戸惑う。
1人で暮らしているとは言え、夫からの生活援助で成り立っている。
デイケアには通っているけれど。
皆働いているのに、
まだ働いていない私は精一杯生きているのか?
そうやって、
鬱病初期の頃は、
何でもかんでもヘルメットを被り
ぐるぐる🌀やっていました。
けれど、最近は少し変化して来ました。
精一杯生きるって何だろう。
生きている、生きていないのジャッジって
誰がどう言う決め方するんだろう?
ぶっちゃけ
そもそも、私は立派を目指しているのか?
いや、それは目指して無い。
なら、この一章節はスルーしてもいいんじゃない?
少し取捨選択が出来る様になったのかな?と思っています。
私がお守りにしているコトバが有ります。
大好きな人と、大学病院を退院し
病後初めて電話で話した時
「みけぴ、自分が思ってる以上に
みけぴなかなかえーよ。自信持ち。」
ぼろぼろ泣いた。
自己肯定感、だだ下がりで
周りの人達がキラキラして
自己嫌悪の塊だった。
お世辞を言う人で無いと分かっているからこそ
嬉しかった。
そう言う作業を、自分で出来る様になれたら
いいな。
適度な自己肯定感。
そして、
それは誰かから評価されるモノでは無く
自分を俯瞰的に見る。
良いコトも嫌なトコも
まんまの自分をまずは、受け入れる。
それが一歩なのかなぁと。
立派も精一杯も無縁かもしれないけれど
ひょろひょろの自分で無く
少しばかり凛としていられたら
嬉しいなぁ。
最後迄読んで頂き有難うございました。