🎬グランドツアー🎞️

観終わってから、なんなんだこの映画は😫と思い、

観ている最中の中盤以降は、「早く終わらないかな🥱」と暗い中で時計を見、

後半には、やはりというかまた、というかとにかく寝てしまって(すみません)、

気がついたらエンドロールでした。

ごめんなさい。

途中(から最後まで)寝てしまったから偉そうなことは言えないのですが、よくわからなくて面白くなかった😭

というのが鑑賞直後の感想でした。


ですので公式サイトを見がてら検索してみると、面白くなかった・寝た・最悪・アジアをバカにしてる…

といった感想が多いのに驚きました。

激賞してらっしゃるレビューを1件見つけましたが、後はその反対、な感じでちょっと安心しました(味方が意外にも多かった、みたいな)。

こんなに褒められてない映画って珍しいです。


ですが、思い返すにつれ、あれはあれであれなりの味があるものだったな、もう一回観たら別口の面白さが味わえるのかも。

などと思い始めてしまいました。

恐るべし、映画の力。

監督の力でしょうか?

他の作品は観たことなかったのですが、ミゲル・ゴメス監督です。

「映像の魔術師」とか「ポルトガルの鬼才」とうたわれてらっしゃいます。

「世界の映画祭&賞レース席巻!」とも。


へぇ。でも変なアジア観を延々と見せつけられて、全く面白くなかったんだけど。と、

しらけた気分でそれらの賞賛を見つめてしまいます。

魔術師とか鬼才ってようわからんもん作る人を褒めなきゃいけないから持ち出して来た褒めワードなんじゃないの?とか、

呟きたくなるのは、私の心が捻じ曲がっているからでしょうか。


しかしそんな私も、予告編を観た時には「これ観たい!」と思っていたのです。

1918年の時代設定に則した衣装や、レトロめいた雰囲気のせいです。

チラシもそんな感じ↓




映画自体もこのイメージから始まります。

1918年のビルマからシンガポールへ移動する主人公・エドワード。

シンガポールではラッフルズ・ホテルに滞在するエドワード。

身一つで飛び出して来たので、服を作るためにホテルに言って、仕立て屋を呼んでもらいます。

ということはエドワードはお金持ちなんだな、ぷらぷら遊んでる身分なのかな、

出だしのシーンで高価そうな大きな花束抱えてたもんね、とか思ってると、

ホテルのロビーだかラウンジだかに居合わせたレジー(エドワード婚約者モリーの従兄弟)との会話で、

二人の母国がイギリスであること、エドワードは公務員であることなどがわかります。

リッチな公務員。高級官僚?にしては仕事全くしてないのだが?


この辺から何か妙な空気に包まれたようになりました。

裏付けのない人物の状況設定。

何かふわふわした、頼りないものの上にストーリーが流れていく感じ。


エドワードは婚約者からの電報(「すぐそちらに着くわ」「もうきたわ すごく会いたい」といった内容ばかり)

を受け取るや否や、ダッシュでその場所から遠くへ逃げるのです。船、鉄道、動物、当時の様々な交通機関を使って。

なんで7年間も婚約者と結婚してないのか、逃げ続けるのか、その理由は語られません。

でもとにかく逃げる。

ので、交通費やホテル代がかなりかかると思うのですが、お金に困ってる描写は出て来ません。

その辺も現実味が欠けてて、ふわふわ感が増しましです。


グランドツアー=Grand Tourというのはその昔、イギリスの上流家庭の子弟が行った数ヶ月から

数年に及ぶこともある外国旅行にして見聞と知識・教養を深めるための旅のことだそうです。

イタリアを始めとするヨーロッパを巡る旅であった時代や、時代が下がってくるとインドから出発して

アジア各国を巡る、植民地視察的な旅行でもあったようです。

そんな範囲も時間も大きい点では逃げるエドワードと追うモリーの旅も共通しているので、

「グランドツアー」ということなのでしょう。


映画の中でも、船中で上品そうな乗船客達とディナーの席についているモリーが、自分の旅の経路と目的について語ると、

「なかなかのグランドツアーですな」とおじさん客に言われています。

モリーは婚約者が逃げてるので追っかけて「掴まえて首根っこを押さえてやるわ。ぶふふー!」と一人大笑いするのですが、

その笑いが何とも下品、で口から空気が漏れまくりで飛沫も飛んでそうな笑いなので、

げ、なんだこの上品な身なりした下品な女は🫨とか驚いてしまいました。

そのディナーの参加者全員盛装で、髪を高く結って(髪結いのできる召使いも同乗してるってことですよね)ティアラまで着けた

おばさんもいハイソサエティな状況なので、モリーも当然良家のお嬢様のはずですから、

うーむ、これは上品が一周回った上でのわざとのお下品演出なのだろうか、とも考えてみたのですが、

なぜこんな笑い方をさせたのか、監督の意図がよくわかりませんでした。


この逃げる男・追う婚約者のストーリーについては、サマセット・モームの「パーラーの紳士」の3ページの記述からヒントを得たと、

ゴメス監督のインタビューで読みました。

そして「登場人物たちが訪れた場所の現在、つまり彼らから見た未来を撮影したい」と考えられたそうです。

その撮影した映像を見て、脚本を書かれたということですが、面白いと思ったのは、単にそこに映った映像を文章化するのではなく、

この映像をこのパートの最初に持ってこよう、とかこの映像はこう使おう、というように考えられたというところでした。


ですので、1918年の衣装と植民地で俳優が演じている映像に続いて、

現代のオートバイ三人乗りやトゥクトゥクが無双に走り回る、混雑した現代のタイの道路が映ったりします。

これも、何だこれは🤨ポイントでした。


さらに、現代のアジア映像は俳優が演じているのではなさそうなのです。

単に街の情景を映してるだけに見えます。

フィリピンのバーではおじさんが「マイ・ウェイ」を熱唱(上手い)した挙句、感極まって涙を流しながら席に戻るシーンがあるのですが、

それは監督がそのおじさんにリクエストして歌ってもらったそうです。

「フィリピン人は熱狂的なカラオケ好き」でマイウェイが人気曲、という情報を得ていたので思いついたとのこと。


え、そんな切り取りに切り取ったような一箇所からしか視点のないような見方で映像作って映画に入れちゃうん?と驚きましたが、

そういうのがいっぱいでてきます。

別のアジアの国(どこか忘れました)でも日本でも。


移動時に人夫?を雇った、彼は3人の妻を連れていた、とかエドワードが語るのですが、

3人の妻を持てるのはお大尽では?「第三夫人と髪飾り」ってベトナム映画があったぞ?

あれはベトナムの田舎とはいえ夫人それぞれに家があって、敷地内に大農園があって、

召使いもユニクロ大型店舗よりいそうな大お大尽だったよ?とかまた状況の信憑性に疑問が湧いてしまいました。


日本でも虚無僧が3人出てきますが、その旅も彼らが乗る荷馬車も奇妙だし、

虚無僧達の庵?に乗り込んできた警官なのか憲兵なのかの集団が話す日本語も不自然だし、全部が嘘っぽい。


けど、監督のインタビューを読むと、それはどうも意図されたことのようなのです。

過去のフェイクなアジアと現代のリアルなアジアを繋げることで、曖昧なフィーリングを醸すことを目的とした、と。

それで観客に想像の余地を残した、とも(大意です)。


むー。確かに曖昧だった。

が、それでその想像の余地を存分に使ったかというとそうでもなく、そこで思考が止まってしまったのが何度もありました。

真っ白な余白ならいいんですけど、変なアジアの女の衣装とか、怪しい日本語の日本兵とか虚無僧とか、何でこう(変なのに)したんだ?

という謎に引っ張られてその造像の余地とやらを残して下さった意図に気づきませんでした。


しかもエドワードが虚無僧と一緒にいるシーンでは、舞台は山奥の山村の外れみたいだったと思うのに、

現代の映像の方はドンキホーテとかビルが立ち並ぶ都会を映してるし。

場所が一致してなくない?

シンガポールでも現代のラッフルズを見てないような。私が寝てる時に映ってたのかな?


あ、あとエドワードもモリーもイギリス人なのに言語はポルトガル語で、訪れる国の言語も話されてるのに英語が全く出てこないのは、

監督(ポルトガル人)が英語だけは使うまいと考えられてたからということでした。


色々不思議があるのですが、「時空を超えた幻想の映画の旅」「類まれな映画の旅」とチラシでは絶賛です。

確かに時空を超えてるけど別に幻想的ではなかったし、他にこういう類はないけどだからと言って類まれ(に素晴らしい)なのか?

とか作品周りにも不思議が湧いて出る、まあ、類がまれっちゃあまれな映画体験ではありました。


とか考えていると後半部分を寝て過ごしてしまったのが悔やまれます。

どの映画にも作品としての価値があると思っていますし、私が寝たからといって、また、文句いっぱいあるからといって、

その作品の価値が損なわれるとは思っていません。

むしろ、あれがこうだ、これがああだ、とか鑑賞後に考え続ける映画って、印象が良かったにしろ悪かったにしろ、

その影響力の大きさはただものではありませんよね。

うん。

やっぱり映画って素晴らしい。

これからも寝ることもあるとは思うけど、映画、よろしくお願いします😊