デタラメばかりのぶっちゃけ寺 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

※人気ブログランキングに参加しています。
よろしければバナーをクリックお願いいたします。

 


人気ブログランキングへ

 

 

昨日のこと、「ぶっちゃけ寺」というテレビ番組で明智(細川)ガラシャの

ことが特集されていました。
期待しないで一応観てみましたが、やっぱり観なければよかったと

後悔しました。
出演者がみな(歴史学者も含め)ガラシャや光秀に関してよく

調べずに、想像で物を言っているだけのデタラメな内容でした。

 

 

番組はガラシャの生涯と父・光秀の生涯をあわせて語っており、

まずはじめの方で信長による比叡山焼き討ちをとりあげていました。

 

 

光秀は信長の命令で比叡山を焼き討ちしたあと、麓にあった

西教寺を再建し、明智家の菩提寺としました。
ぶっちゃけ寺の出演者たちは、「光秀は比叡山を焼き討ちした

実行犯。

三千人も亡くなった焼き討ちを後悔する気持ちがあって

再興したのだろう」と語っていました。

この発言はあまりにも理解が足りません。

 

 

当時の比叡山は多大な財力と兵力を持ち、都と天皇をたびたび

脅かし、山内では遊女や稚児が大勢暮らし、都の鬼門を護る

聖地とは名ばかりの酒池肉林の有様となっていました。
信長が野田・福島(現大阪市)で三好三人衆を相手に戦っていた

元亀元年、浅井・朝倉連合が信長の背後をついて比叡山を

バックに攻撃をしかけてきました。連合軍は比叡山にたてこもり、

大坂から駆け戻った織田軍は比叡山の麓に陣を張り、以後数ヶ月

にらみ合いが続きました。このため織田軍は主力部隊が比叡山に

釘付けにされ、他の方面に戦力を注ぐことができなくなり、信長は

最大の危機を迎えてしまいます。

この時は正親町天皇の調停によって信長と連合軍とは和睦に

漕ぎつけ、信長はいったん危機を脱しました。
信長は比叡山に対し、連合軍に荷担しないよう中立を守れと書状を

送り、荷担し続けるようなら全山焼き討ちにするぞと忠告します。

比叡山はこれを単なる脅しと受け取ったのか、信長の

書状を無視しました。

 

 

神聖な聖地を焼き討ちしたのであれば罪悪感も湧くかも

しれませんが、信長側からしてみれば、仏教の教えに反し俗世の

戦さに介入してきた以上、単に倒すべき敵にしかすぎず、

きちんと忠告しているのを相手が勝手に無視しているだけなので、

罪悪感など持つ必要がありません。
光秀にしても当然そのあたりの経緯を熟知しての攻撃です。

そうはいっても人間です。老若男女選ばず殺害したといわれている

焼き討ちは、やはり気持ちのいいものではなかったかもしれません。

しかし光秀がいったん消失させた西教寺を再興させたのは

罪悪感からではなく、ぶっちゃけ寺出演者の一人美輪明宏氏が

語っていたように、復興させる寺院は本来の仏教寺院として

正しい役目を果たす、慈悲の場であれと願い復興させたものでしょう。
(この日の出演者の発言で同意できたのはこの一つのみでした)

 

 

ちなみに番組では比叡山で殺されたのは三千人と言っていましたが、

最近の研究では全山焼き討ちしたというのは大げさすぎるし、

死者が三千人とか数千人というのも多すぎるとされています。

そこまで大規模な焼け跡や痕跡はないそうです。

 

 

ガラシャがキリスト教に入信した理由を解説するということで美輪氏が

語っていましたが、これがすべて間違いばかりでした。
挙げていた理由というのが、色ガラス(ステンドグラス)、

オルガンなどの音楽、オラショという音楽的な祈り。

キリスト教にはキラキラした憧れの対象になる要素がたくさんあると

いう内容の発言でした。
さらに、ハイカラな西洋文化に憧れたのも理由に入ると語って

いましたが、とんでもなく的外れな発言です。

 

 

まず当時の日本にまだステンドグラスはありません。

日本に入ってきたのはガラシャの時代よりずーっと下った

近代になってからです。
オルガンは、1579(天正7年)年に巡察師ヴァリニャーノが2台の

オルガンを日本に持ち込み、1台はキリシタン大名大友宗麟の

豊後臼杵に、もう1台は信長の安土に運んだという話があります。

ガラシャの生きている時代にオルガンは日本に存在したようですが、

オルガン音楽を聴いた可能性はほぼゼロです。

ガラシャが嫁ぐ前に暮らしていた坂本城と安土は近くといってよい

距離ですが、ガラシャがキリスト教に興味を持ったのは細川家に嫁ぎ、

本能寺の変がおこり、光秀が亡くなったさらにその

ずっと後のことです。

光秀がキリスト教に理解を示したという記録はなく、むしろ理解を

示さない「敵」のような存在として、伴天連たちは光秀に関する

記録を残しています。その光秀の娘として過ごしていた時代の

ガラシャがわざわざ安土にオルガンを聴きに行っていたとは

到底考えられません。
そもそもガラシャがキリスト教の教会に行ったのはその生涯で

後にも先にもただの一度きりです。

 


すでに世は豊臣の時代。

ガラシャはキリスト教に入信していた侍女から話を聞き、また忠興から

その友人である高山右近の語るキリスト教の話を聞いていました。

その信仰の内容に興味を持ったガラシャは、夫忠興から外出を

禁じられていたため身分を隠して密かに大坂の南蛮寺を訪れました。

限られた時間の中で、教義に関するあふれるほどの質問をし、

答えを得ることに集中していたことが記録されています。
ガラシャが南蛮寺を訪れた時、ちょうど説教係の修道士が

外出しており、ガラシャは通常オラショが唱えられる祭壇のある

場ではなく、別室で修道士が戻るのを待っていたと記録されています。
ですのでガラシャがオラショに惹かれて入信したのだろうという

美輪氏の想像はまったくあり得ません。

 

 

美輪氏の発言に加え男性僧侶が、仏教の教典は漢字で書かれて

いるので難しくて理解できないのに比べ、キリスト教は口語文で

書かれているので理解しやすい、すーっと入って来るというのも

入信した理由だと語っていましたが、これもガラシャについて

調べていないことがよくわかる発言です。

 

 

伴天連宣教師らが日本に来た時、日本人の知的水準の高さ、

知的好奇心の旺盛さに驚きました。この国民にキリスト教を

広めるには、この国の、特に都や都市部で大きな勢力を持つ

「仏教」を論破しなければならないと考えました。
それもまず上流階級に位置する人間に広め、そこから下へと広げて

いくのが日本の国民性に合った布教方法だと考え、貴族や大名、

高位の僧侶と対峙できるよう徹底的に仏教の教義を研究しました。

そういう宣教師たちの一人がガラシャについて記録を残しています。

 

 

ルイス・フロイスの記録によると、ガラシャの舅細川藤孝は禅宗の

熱心な信徒であり修行を積んでいたそうで、館の近くに修行用の

僧院をつくっていたとあります。
「上記の舅(藤孝)、姑、ならびに嫁(ガラシャ)は、その宗派の学識ある

一僧侶が説く要点の話を聞き、それらについて黙想したところを

件(くだん)の僧侶に語るため、ほとんど毎日のように同所に

詣でていた。

彼らのうち、嫁は、〔彼女を知っている人たちの言葉によれば〕

繊細な才能と天賦の博識において超人的(モンストロ)であったので、

他の誰よりも一段と秀でており、すでに彼女は師匠の

そのまた師匠でありうるほどであった。」

 

 

さらにガラシャが南蛮寺を訪れた際の記録があります。
(日本人のコスメ修道士は帰ってくるとただちにガラシャに

説教を始めた)

「越中殿(細川忠興)の奥方は実に鋭敏で繊細な頭脳の

持ち主であった…(中略)。かくて彼女は多くの質問を修道士に

持ち出し、さらに霊魂の不滅性、その他の問題について

禅宗の幾多の権威をふりかざして反論を試みたので、

修道士は彼女の頭脳の敏活さに驚いて、後ほど、自分は

過去十八年の間、あらゆる宗派についてこれほど

明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性とはなしたことはなかった、

と漏らしたくらいであった。」

 

 

ガラシャが、「漢字で書かれた教典が難しいので仏教が理解

できなかった」というレベルの人ではなかったことがおわかり

頂けるでしょう。
なによりガラシャがキリスト教に入信した理由は、彼女自身の

言動によって明らかになっています。

「彼女は、(キリストの)福音の教えと、自らがその時まで奉じてきた

禅宗との間にある相違を見届けると、ふたたびそこに来ることが

できぬ(忠興に外出を禁じられている)身であることを承知

していたから、聖なる洗礼を授けてほしいと大いに願い、幾たびか

両手を合わせてその願いを繰り返した。そしてまだ理解し

聞かねばならない説教の残りの部分は、教理本をできれば拝借し、

それによって学ぶことにしたいと申し出た。」

 

 

どうでしょう?
ガラシャが入信したのは、キラキラした西洋文化やわかりすい

口語文の教えに惹かれたなどという浮ついたものではなく、今まで

深く信仰していたものを捨てても納得できるほど、あらたな教義を

理解し、強く惹かれたからだということがおわかり

頂けるのではないでしょうか。


というわけで、美輪氏や僧侶らの発言は事実とはかけ離れたもので、

想像だけでガラシャを語っていたことがはっきりしています。

 

 

 

長くなったので、続きは次回に。

 

 

 

ペタしてね

どくしゃになってね…