本能寺の変 その時光秀は… 24 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちらの「はじめに。」から
お読みください。
 

 

 

天正10年6月2日時点で織田軍の五大軍団のうち、近畿方面司令官

明智光秀以外の四名は、各方面でそれぞれの敵と対峙中

(神戸信孝は四国へむけ進軍準備のため在大坂)であり、

信長が宿泊している京都は空白状態にありました。

 

 

関東・東北方面の大名たちは織田軍に恭順の姿勢を見せ

ひとまず収まっており、北陸方面の上杉氏もあと一息で

堕とせるところに迫っていました。
中国の毛利氏、四国の長宗我部氏もそれぞれ織田軍の侵攻の

前に風前の灯火といっていいところに追い込まれていました。
信長が本当に天下統一を狙っていたのだと考えれば、それは

もう一息で成就するところまできています。
天下布武に至る前の一瞬間に、魔の刻(とき)が訪れたのです。

 

 

6月2日の前夜、信長は本能寺で眠りに就き、嫡男信忠は

すぐ近くの妙覚寺に宿泊していました。

信長の身辺を守るのは150~200人程度。
信忠配下の家臣らは妙覚寺と洛中に分宿しており、500人

程度はいたとみられています。

 

 

本能寺にほぼ隣接しているといっていいほど近い位置

(直線で100メートルほど)には南蛮寺があり、

伴天連宣教師らが在任していました。

 

南蛮寺から東へ50メートルの位置には、家康の御用商人

茶屋四郎次郎の屋敷があり、家康は京都見物をしている間、

茶屋屋敷に宿泊していました。

 

 

光秀は亀山で中国出陣の準備中。

そして堺での遊覧を終えた家康は6月2日早朝、

京都へ移動中でした。

 

 

本能寺も妙覚寺も、現在は信長時代の場所から移動していますが、

「元本能寺町」「上妙覚寺町・下妙覚寺町」「二条殿町」などといった

地名が残っています。

 

二条殿町にはもともと二条家の邸宅があり、庭園の素晴らしさが

有名でしたが、信長が立ち退かせて自らの京屋敷としました。

その後誠仁親王に献上し、「二条御新造」「二条新造御所」などと

呼ばれます。徳川時代の二条城とは関係ありません。

 

「二条新御所」の隣には近衛前久邸がありました。
現在マンガミュージアムが建っているあたりが、新御所と

近衛邸跡とみられます。

 

元本能寺からマンガミュージアムまで歩いてみたところ、

20分弱くらいでした。

男性が走ればものの10分もかからないでしょう。

 

 

本能寺の向かいには京都所司代を務めた村井貞勝の

屋敷がありました。
本能寺の異変を知った貞勝は妙覚寺の信忠に報せ、信忠に

二条新御所へ移動して戦うことを進言としたとされます。

 

 

 

 

 

 

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