※人気ブログランキングに参加しています。
よろしければバナーをクリックお願いいたします。
※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちらの「はじめに。」から
お読みください。
天正10年6月2日時点で織田軍の五大軍団のうち、近畿方面司令官
明智光秀以外の四名は、各方面でそれぞれの敵と対峙中
(神戸信孝は四国へむけ進軍準備のため在大坂)であり、
信長が宿泊している京都は空白状態にありました。
関東・東北方面の大名たちは織田軍に恭順の姿勢を見せ
ひとまず収まっており、北陸方面の上杉氏もあと一息で
堕とせるところに迫っていました。
中国の毛利氏、四国の長宗我部氏もそれぞれ織田軍の侵攻の
前に風前の灯火といっていいところに追い込まれていました。
信長が本当に天下統一を狙っていたのだと考えれば、それは
もう一息で成就するところまできています。
天下布武に至る前の一瞬間に、魔の刻(とき)が訪れたのです。
6月2日の前夜、信長は本能寺で眠りに就き、嫡男信忠は
すぐ近くの妙覚寺に宿泊していました。
信長の身辺を守るのは150~200人程度。
信忠配下の家臣らは妙覚寺と洛中に分宿しており、500人
程度はいたとみられています。
本能寺にほぼ隣接しているといっていいほど近い位置
(直線で100メートルほど)には南蛮寺があり、
伴天連宣教師らが在任していました。
南蛮寺から東へ50メートルの位置には、家康の御用商人
茶屋四郎次郎の屋敷があり、家康は京都見物をしている間、
茶屋屋敷に宿泊していました。
光秀は亀山で中国出陣の準備中。
そして堺での遊覧を終えた家康は6月2日早朝、
京都へ移動中でした。
本能寺も妙覚寺も、現在は信長時代の場所から移動していますが、
「元本能寺町」「上妙覚寺町・下妙覚寺町」「二条殿町」などといった
地名が残っています。
二条殿町にはもともと二条家の邸宅があり、庭園の素晴らしさが
有名でしたが、信長が立ち退かせて自らの京屋敷としました。
その後誠仁親王に献上し、「二条御新造」「二条新造御所」などと
呼ばれます。徳川時代の二条城とは関係ありません。
「二条新御所」の隣には近衛前久邸がありました。
現在マンガミュージアムが建っているあたりが、新御所と
近衛邸跡とみられます。
元本能寺からマンガミュージアムまで歩いてみたところ、
20分弱くらいでした。
男性が走ればものの10分もかからないでしょう。
本能寺の向かいには京都所司代を務めた村井貞勝の
屋敷がありました。
本能寺の異変を知った貞勝は妙覚寺の信忠に報せ、信忠に
二条新御所へ移動して戦うことを進言としたとされます。