島原・天草旅行記 1 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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今月21日~23日、土曜日から月曜日の三連休を利用して
念願の島原・天草へ旅行してきました。
二泊三日のプチ旅行、お墓参りツアーです。



明智光秀と自分の家の繋がりを調べはじめて約五年が

経ちます。
調べはじめてしばらく経った頃に一度島原へ行きましたが、
その時は大雨にたたられてお墓へ

たどり着けずじまいでした。
その後家庭の事情でなかなか泊まりがけの旅行ができずに

いましたが、今回やっと出かけることができました。



わたしの夢は、自分の家系についてまとめた本を

出すことです。
それも自費出版ではなく出版社にお金を出してもらい

出版するというささやかな野望を抱いています。
最近ある学者さんから、そんなに詳しいなら本を出すと

いいですよと言われ舞い上がっています。
お参りと、いつか本を出しますということを先祖に

報告するということも兼ねて旅の準備を進めました。
何から何までスムーズに進み、素晴らしい旅行となりました。
旅の後半二日間、九州地方は雨の予想だったのに、

三日間ともお天気に恵まれました。
何より幾人もの方たちにお世話になり、もったいないほどの
好意を頂けたことが最も素晴らしい思い出となりました。
感謝の気持ちを込めて記事を書いていくことにします。




旅の宿は天草側のホテルをとりました。
一日目は天草で亡くなった三宅藤兵衛のお墓に参り、
二日目はフェリーで対岸の島原側に渡って父の実家の

お墓参り。
三日目は藤兵衛が番代(唐津本藩の筆頭家老級の役職。

天草の富岡は唐津藩の飛び地だった。)を勤めた富岡城を

見に行く予定です。




天草には空港があり、天草航空(AMX)が大阪便を飛ばして

いるのですが、諸事情により来年まで運休中とのこと。
そこで新幹線スーパー早得きっぷを使い新大阪から

熊本駅まで行き、そこからバスで二時間半ほど揺られて

天草入りしました。
藤兵衛終焉の地、そしてお墓があるのは天草の

本渡(ほんど)という地域です。
本渡は天草の中心地として繁栄した場所だそうです。



ホテルのすぐ前の本渡バスセンターに

天草宝島観光協会所属するボランティアガイド のKさんが

迎えに来てくださっていました。
観光協会に事前に問い合わせたところ、天草の歴史と

三宅藤兵衛について最も詳しいというKさんを

ご紹介いただきました。
ガイドの会は一時間千円という良心価格で希望の場所を

案内してくださるので、方向音痴のわたしはとても

助かりました。
しかもKさんは藤兵衛子孫のわたしが来るということで、

恐縮するほど熱心で丁寧なガイドをしてくださいました。




ホテルに荷物を預けて早速ガイドツアーのスタートです。
先ずはホテルから徒歩ですぐの祇園橋へ。
町山口川(まちやまぐちがわ)に架かる祇園橋のあたりは

天草・島原の乱(天草の人々は乱のことを天草・島原の乱と

呼び、島原の人々は島原・天草の乱と呼びます。)の

激戦地です。


寛永14年10月25日(1637年12月11日)に勃発した

天草・島原の乱。
藤兵衛は富岡城を出陣し、このあたりで戦い

討ち死にしました。
祇園橋(石造で全国的に珍しい多脚式構造。国の

重要文化財。)が架けられたのは江戸時代も後期の

天保年間ですので天草・島原の乱の頃には

存在していません。








町山口川を挟んでキリシタンを中心とする一揆勢と唐津藩が

激闘を繰り広げました。
川には多数の遺体が浮かび、水が真っ赤に

染まったそうです。


このあたりには藤兵衛の知行地が存在したので村人たちは

唐津藩側だったのですが一揆側に寝返り、そのため

出陣してきた藤兵衛とその従者一行は追いつめられて

孤立し、激闘の末藤兵衛は切腹、従者たちも落命しました。





つづく