本能寺の変 その時光秀は… 8 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。







天正10年(1582)5月、信長から備中出陣中の秀吉を

支援するよう命じられた光秀は、準備のため

坂本城に戻りました。


同月26日坂本城を発し、もう一つの領地亀山に

参着しました。


翌日、愛宕山に登り、愛宕権現に戦勝祈願をして

籤を引いています。
この時三度クジを引いたという話があり、謀反を

実行するかどうか迷う光秀の気持ちの現れだと

解釈する人がいますが、単に作法として三度引く動作を

行っただけであるという説もあります。
愛宕参籠は戦勝祈願のためだけではなく、当時の

神社仏閣は軍資金を集めるための場として機能していた

という研究があり、光秀も備中出陣に際しての軍資金集めで

登山した可能性があるようです。



当時愛宕山下坊・福寿院には細川家の子息が

入門していたという記録が細川家記にあり、光秀の動向が

愛宕山から細川家に伝えられていた可能性が

あるかもしれません。
ただし細川家の家史である『細川家記』

(綿考輯録めんこうしゅうろく)は、かなり疑ってかからなければ

いけない資料でもあるので、これも今後の研究課題の

一つです。



クジを引いた翌28日、光秀は同所西坊威徳院において

連歌会を開きました。
100の歌を詠んだ百韻連歌、後に愛宕百韻と

呼ばれるものです。
参加者は光秀の他に嫡男・光慶(みつよし)、光秀の家臣

東六郎行澄、連歌師の里村紹巴とその一門、威徳院の

行祐法印など合計九名です。


連歌会の舞台となった愛宕山は愛宕権現が奉られた

神仏習合の山として有名で、愛宕山白雲寺から勧請された

愛宕社は、火伏せや盗難除けの神として全国に

広がっていました。
また白雲寺は勝軍地蔵を本尊としていたため、

愛宕権現=勝軍地蔵という軍神であるとして、武士たちの

信仰を集めていました。



光秀が詠んだ発句(ほっく)

「ときは今 あめが下しる 五月哉」



この「とき」が光秀の出自である土岐氏にかかっている

として、「あめ」=「天」、天を下しる=天下をとる、

土岐氏である光秀が天下をとる決意表明であるという

解釈が広まっています。
そんなわかりやすい歌を披露して、謀反をおこすことを

わざわざ知らせるはずがないという意見も多くあります。



連歌会が興行された当日の28日、光秀がしたためた書状が

残されています。
山陰の国人に宛てた書状で、近年発見されたものです。
ここに、信長から備中出陣を命ぜられたことが

記されています。
山陽道に毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が出陣してきて
羽柴秀吉と対陣しているので、光秀はまずその方面(備中)に

行くようにと命じられています。
備中に着陣し、様子を見て方向を変え、

伯耆国(ほうきのくに)へ進む予定であると、光秀は

記しています。



本能寺の変勃発の三日前の時点で、光秀は備中へ行く

つもりで用意をしていたことがわかる書状なのですが、

これを謀反を隠すためのカムフラージュであろうとする

研究者がいます。
そうした見方に対して桐野作人氏は、伯耆という遠国の

国人にカムフラージュなどしていかなる効果や役割を

期待するのか?という反論をされています。
「さほど急用とも思えない内容だから、カムフラージュする

手間をかけるくらいなら書状を書かなければよい。
書かないほうがましなものをあえて書いたのは、光秀が

中国に出陣するつもりでいたからだと考えるしかない。
だから書状の内容はカムフラージュでもなんでもなく、
この日の光秀の心情(中国へ出陣するつもりであること)を

素直に表したものである。」ということです。
桐野氏は、光秀は三日前でもまだ謀反を決断して

いなかったので、最終的に決断した時期はこの日以降の

いつだったのか、そして直接的な契機は何だったのかという

考察を展開されています。



光秀を謀反人として見ずにフラットな目でこの三日前の

書状を見ると、光秀は謀反をおこす気などなかったという

証拠の一つになると思うのですが、そう思ってもらえるのは

なかなか難しそうです。



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