小早川秀秋 その1 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。




杉原家次という人は一般には知られていない地味な

存在ですが、あまり歴史に興味のない人にも

小早川秀秋という名前は知られているのではないでしょうか。
その小早川秀秋、実は杉原一族の一人なのです。



小早川秀秋について調べようとしてみたところ、研究書の

ようなものはあまり出ていないようです。
小説はけっこう出ているようですが、小説ではなく詳しく

研究した本で手に入りそうなものが二冊しか

見つかりませんでした。
図書館で桑田忠親著『新編 日本武将列伝』
6・天下平定編

というのを見つけ、その中の小早川秀秋の

項がわかりやすくまとまっていました。




小早川秀秋・幼名辰之助(通称金吾)は天正10年(1582)、

本能寺の変の年に生まれました。
父は秀吉の正室・北の政所(おね)の兄、
木下家定。

母は杉原家次の娘おあこ(雲照院)。
金吾は秀吉の甥であり、杉原家次の孫にあたります。

家定はおねの縁により秀吉の家臣となって、秀吉の居城の

ある長浜城下におり、金吾もそこで生まれました。


秀吉には子どもがなかったので、幾人もの養子を

持っていました。
秀吉の姉・おとも(のちの瑞竜院)と尾張中村の百姓

弥助(のちの三好武蔵守一路)との間に生まれた孫七郎

(のちの豊臣秀次)、宇喜多秀家の子の八郎、織田信長の

四男・御次、徳川家康の次男・御義伊、前田利家の娘・

菊姫、豪姫などであり、金吾もそのうちの一人です。


おねにせがまれた秀吉は天正13年、三才の金吾を長浜城へ

引き取ることとなりました。
金吾は秀吉夫妻、特におねに溺愛され、
朝廷に奏請して

従四位下右衛門督に叙任せられ、名を秀俊と改めました。
右衛門督という官職名を唐では金吾と称したので、以後

金吾と呼ばれることとなりました。
幾人もの養子のうち金吾が豊臣の跡目を相続するのでは

ないかと見られていた時期があったため、諸大名はこぞって

金吾の歓心を買おうとしていたそうです。



天正17年(1589)、秀吉の愛妾淀殿に鶴松という男児が

生まれ、秀吉は初めてもうけた実子に夢中になりましたが、

鶴松は三才で病死してしまいました。
秀吉は落胆し、関白職を羽柴孫七郎秀次に譲り、自らは

太閤と称して伏見城へ移りました。
金吾はその頃、かつて光秀の国であった丹波亀山十万石を

与えられています。



鶴松亡き後天正19年(1591)、秀吉は唐入りを決め、肥前

名護屋に本営を築きました。
若年の金吾のことは唐入りの戦線にさらさずに、留守居役に

あてようと考えていたようです。
この頃秀吉は秀次に豊臣家を継がせ、金吾には自分の

隠居分の領地を与えるつもりだったとみられています。
その為かこの年、金吾の官位を昇進させて参議とし、

翌文禄元年にはさらに権中納言に昇らせています。

ところが翌文禄2年、秀吉と淀殿の間にまたも実子・秀頼が

生まれたことから秀次、そして金吾の運命が大きく

変わることとなります。





長くなったので次回に続きます。



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