光秀冤罪説を考える 9 椙原家系図 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

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先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。





前回の記事に書いたとおり、福知山御霊神社に奉納された
「椙原氏家系図」の記述にはおかしな箇所がいくつも

あります。
最もおかしいのは、椙原家次以後に跡を継いで藩主となった

者たちの没年月日です。
幕府側の記録をまとめた『徳川実紀』にある記述と

比べてみます。




まず椙原家次の没年月日は『徳川…』『椙原氏…』ともに
天正12年(1584)9月9日で同じ。


二代・椙原長房の没年月日は、『徳川…』が寛永6年

(1629)2月4日。
『椙原氏…』は同じく寛永6年の3月4日。


三代・椙原重長の没年月日は『徳川…』が寛永21年

(改元して正保元年=1644)10月29日

(他の記録では28日と書かれたものあり)。
『椙原氏…』は正保9年(1644)10月3日没。


四代椙原重光の場合、『徳川…』では名前が重玄となり

(その他の経歴等から考えて重玄と重光は同一人物)

没年は承応2年(1653)10月14日没。
『椙原氏…』では同じく承応2年10月4日没となっています。



幕府側の記録と御霊神社に残る記録とのこの違いは

どういう理由によるものなのでしょう。
気にしないでよい程度の記録の混乱で済ませてよいもの

なのでしょうか。




そして、どうしても無視することのできない記述があります。
『椙原氏家系図』の家次の項に「天正八年 福知山城地 

三万石」とあります。
天正八年といえばもちろん家次の時代ではなく、光秀が

丹波を平定し、福知山三万石を領した年です。
家次は天正10年に光秀が亡くなった後の坂本城に入り、

その後福知山へ移ってきています。
光秀を祀る神社に奉納する家系図に、こんなことを

書き間違うとは思えません。
何か重大な意味があって、家次が福知山へ入った年を

「天正八年」としたのではないでしょうか。




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