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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら
の「はじめに。」から
お読みください。
こちら の記事に書いた福知山御霊神社の年表を思い出してください。
福知山・紺屋町の榎の老樹の下に、小さな稲荷社が
ありました。
室町時代の頃からあったといわれています。
福知山・菱屋町には日蓮宗常照寺がありました。
常照寺の檀家に奈良屋喜左衛門という商人がおり、この
奈良屋が私邸の鎮守として光秀を祀っていました。
奈良屋喜左衛門とはどういう人物なのか、なぜ光秀を祀って
いたのかは今のところわかっていません。
(奈良屋喜左衛門はもともと宮津からやってきたのではないか
という話があるらしく、宮津を領地として治めていたのは
細川家ですので、何か気になります。)
宝永2年(1705)、福知山町民が願主となり、常照寺境内に
光秀の御霊が勧請されました。
奈良屋私邸の鎮守・光秀と常照寺に勧請された光秀御霊社
との関係は不明です。
寛保年間(1741~)、常照寺の光秀御霊社が、紺屋町
稲荷社の摂社として移建されました。
つまり、光秀御霊が稲荷社へ引っ越しをして、光秀御霊と
お稲荷さんが合祀されたのです。
そして時代は下り、明治時代に中ノ町へ引っ越し、
福知山御霊神社として現在に至ります。
現在の御霊神社の直接の前身は、常照寺御霊社と
いうわけで、常照寺御霊社の創建縁起が、そのまま現在の
御霊神社創建縁起とされています。
その縁起とは、宝永2年(1705)、その頃福知山は幾度も
天災にみまわれ、お城にまで火事が起こり、殿様が城外へ
避難する有様でした。
そこで当時、常照寺・日遥上人によって
『明智日向守光秀祠堂記』というものが記されています。
それは、光秀は福知山を中世の小さな集落から新しい
城下町へと造り変え、堤防を整備して町を洪水から守り、
楽市・楽座を施行し、地子銭(税金)を免除する等の
善政を布いた。
その徳を福知山の人々は忘れ去り、百年以上も光秀の恩に
報いることがなかった
ので光秀が怒り、菅原道真公のように祟りをもたらしている。
それで光秀の鎮魂のために御霊社を建てることになった…
というものです。
しかしこれはおかしな理屈ではないでしょうか。
災いがおこるたびに、わざわざ百年以上も前の人の政策を
忘れたからだと理由づけするのはどうも不自然だと
思うのです。
福知山は光秀時代からもその後も、現代に至るまでたびたび
洪水に襲われた町です。
洪水などの災いを光秀の祟りだと怖れたというのなら、
百年後ではなく、光秀が亡くなったすぐ後の時代にも、
そういうことを言い出したりはしなかったのでしょうか。
百年以上経ってから急に光秀の祟りだと言い出したと
いうのは、納得がいきません。
福知山町民が光秀の怒りを鎮める為に祀ったというのは
表向きの縁起で、それとは別に、本当の縁起が隠されている
ような気がします。
次回はもう一つの縁起を探ってみることにします。