『信長公記』に見る明智光秀  その16 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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天正5年(1577)8月。

対石山本願寺用に築いた砦に城番として入っていた

松永久秀・久通親子が謀反を起こし、砦を出て


大和・信貴山城に立て籠もりました。

信長は「如何なる理由があるのか、望みが
あるなら


聞こう」と、右筆・松井友閑を通じて尋ねさせ


ましたが、松永親子はこれを拒否して出頭


しませんでした。

そこで、松永が人質として差し出していた12歳と


13歳の兄弟(久通の息子と思われる)は、


京都・六条河原で処刑されました。

二人とも落ち着いた様子で最期の時をむかえ、


集まっていた民衆の涙を誘ったそうです。








10月。松永方の森秀光・海老名勝正という者たちが


片岡(奈良県上牧町)というところの城に立て籠もって


いたのを、明智光秀・細川藤孝・筒井順慶および

山城衆が攻めました。

城主の森と海老名、その配下の150人余りが


討ち死にしましたが、細川藤孝は部下30人が


犠牲になり、光秀の部下も20人余が亡くなるという

激戦でした。


光秀も粉骨砕身の働きをしたと牛一は記します。

この時藤孝の息子、忠興(15歳)・昌興(13歳)兄弟は


初陣ながらあっぱれな働きぶりで、信長はその


働きを褒め称えた感状を送っています。

その感状は、現在まで細川家に伝わる貴重な書状と


なっています。








10月10日夕刻。織田信忠の指示で佐久間信盛・


羽柴秀吉・丹羽長秀・明智光秀らの軍勢が


信貴山城へ攻め上りました。

大軍勢に攻め寄せられた松永勢は防戦に


あたりましたが、最後は力尽き、久秀は天守に火を


かけ焼死しました。

名物の茶釜平蜘蛛(ひらぐも)に火薬を仕込み


爆死したという話もあります。


永禄10年10月10日の夜。奈良の大仏殿が炎上した


のは久秀の仕業だったと思われており、久秀が


亡くなったのも同じ10月10日でした。

この一月前の9月には箒星(ほおき星。彗星)が


目撃されていたこと、信忠が鹿の前立て付きの


兜をかぶり攻め寄せたこと、大仏殿炎上と同じ


月日時刻だったことから、久秀の死は春日明神


(春日大社。鹿は春日明神の使いとされる。)の


なせるわざだと人々は驚きました。








松永久秀という人はその生涯、行動、すべてが


とてもややこしい人です。

応仁の乱後の世上の混乱を深めた一人と


言えるでしょう。






京都の中西部、現在の大山崎、長岡京から桂に


かけてのあたりは中世の頃、西岡(にしのおか)と


呼ばれ、西岡被官衆と呼ばれる土豪たちが


ひしめいていました。

西岡被官衆は豊かな経済力をもとに、協力な


一揆をおこすこともありました。
美濃の名門斎藤家をのっとった斎藤道三。

道三と松永久秀はともに西岡出身だったという


説があります。

パンチのある二人が幼馴染みで、天下盗りを


誓い合った仲というおもしろくも美しい小説、


宇月原晴明著『黎明に叛くもの』シリーズ


お勧めです。










「松永弾正一味として、片岡の城へ森のゑびなと


云ふ者楯籠る。




攻め衆


永岡兵部太輔・惟任日向守・筒井順慶・山城衆。


十月一日、片岡の城へ取懸け攻められ候。

永岡与一郎・同弟頓五郎、あには十五、おとゝは


十三、未若輩にて一番に乗入り、内の者共


つづいて飛入り、即時に攻めやぶり、天主へ


詰寄せ、内より鉄炮・矢数射尽し切て出で働く事、


火花をちらし、つばをわり、爰をせんどと相戦ひ、


城主森・ゑびな初として百五十余討死候。

永岡、手の者三十余人討死させ、与一郎・頓五郎


兄弟高名なり。

惟任日向守、是又手を砕き、究竟の者
二十余人


うたせ、粉骨の働き名誉の事なり。

年にも足らざる両人の働き比類なきの旨、


御感なされ、忝くも信長公御感状なし下され、


後代の面目なり。






十月十日の晩に、秋田城介信忠、佐久間・羽柴・


惟任・惟住諸口仰付けられ、信貴の城へ攻上られ、


夜責にさせられ、防戦、弓折・矢尽、松永天主に


火を懸け焼死候。」









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