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天正5年(1577)。信長ははじめて紀伊に出兵
しました。
この年2月、本願寺と結んでいた紀伊国雑賀の
三緘(みからみ)衆と根来衆・杉の坊が信長方につくと
申し出てきました。
信長方が調略していたものとみられます。
その機に信長はただちに上洛し、五畿内衆や
織田家一門衆に加え越前・若狭・丹後・丹波・播磨の
衆などの軍勢を整え、紀伊国目指して出兵しました。
軍勢は途中大阪南部・貝塚市の一揆衆を降し、
和歌山へ向けて南進します。
2月17日、根来寺・杉の坊が出仕して信長に
忠誠を誓い、紀伊進軍の案内役となりました。
紀伊国国境近くで、信長は軍勢を山方と浜手の
二手に分けることにしました。
山方は杉の坊と三緘衆を案内者として、
佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・堀秀政らが
雑賀に入って行きました。
淡輪(丹和、たんのわ・大阪府岬町)から進む浜手の
陣容は、滝川一益・丹羽長秀・細川藤孝・筒井順慶・
大和衆に加えて信長の息子たち、そして
明智光秀です。
淡輪から先は難所が続くので、浜手軍はくじびきで
軍を三つに分け、進軍していきました。
藤孝と光秀は中央の道を進撃中に、雑賀の一揆勢
相手に交戦しています。
そこへ第二陣として追いついてきた信長の
息子たちが加わり、中野(和歌山市)の城を
包囲しました。
信長本隊も中野の城へ迫ってきていることを知り、
城に籠っていた者たちは降参し、開城しました。
3月に入り、滝川・丹羽・蜂屋・細川・筒井・および
若狭衆、そして光秀らは、鈴木重秀(雑賀孫一)の
居城を攻撃しました。
長期にわたり大群に囲まれた雑賀の一揆衆は、
大将分の雑賀孫一ら七人が連署して誓紙を提出し、
本願寺とは手を組まないこと、信長に忠節を尽くす
ことを約して降伏しました。
信長はこれを受け入れ、雑賀衆を赦免し、
陣を解きました。
そして佐野という村に砦を築くように命じ、光秀らは
さらに駐留を続けました。
淡輪町、岬町の周辺を地図で見てみると、
関西国際空港のさらに南、すぐ目の前には手の
届きそうな距離に淡路島が浮かんでいます。
わたしは神戸出身で育ったのは大阪市の北部
なので、大阪南部はほとんど知らないのですが、
中学生の頃に一度だけ家族でなぜか岬町あたりの
海水浴場へ行ったことがあります。
どうして一度も行ったことのない、うちから2時間
以上もかかる遥か遠くの町まで遠征したのかは
今となっては思い出せず、後にも先にも
大阪最南部へ出かけたのは、関空以外では
その一回きりです。
400年前に光秀たちが進軍していった場所だとは
当時のわたしには知る由もなく、暢気に泳いだ
夏の日でした。
「浜手の方へ遣はされ候御人数、
滝川左近・惟任日向・惟住五郎左衛門・
永岡兵部太輔・筒井順慶・大和衆、谷の輪口より
先は道一筋にて節所に候間鬮取にして三手に
作て山と谷と乱れ入り、中筋道通り永岡兵部太輔・
惟任日向守打入れ られ候処、雑賀の者共罷出で
相支へ一戦に及ぶ。
三月朔日、滝川・惟任・惟住・蜂屋・筒井・若狭衆
仰付けられ、鈴木孫一居城取詰め竹たばを以て
攻寄り、城楼を上げ、日夜あらあらと攻めさせられ、
何方へも懸合せ能様にと思食させられ、………
三月廿一日、信長公御馬を納れられ、香庄に
至って御陣取。
次日御逗留。佐野の村に御要害仕るべきの旨
仰付けられ、佐久間右衛門・惟任日向守・
惟住五郎左衛門・羽柴筑前・荒木摂津守、
残し置かせられ、杉の坊・津田太郎左衛門、定番に
置かせられ、三月廿三日、若江迄御帰陣。」

