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天正2年(1574)正月、信長は光秀のこどもたちに
関する命を下しました。
男子は筒井順慶の養嗣子とするように、女子二人は
それぞれ細川藤孝の嫡子と織田信澄に
嫁がせるようにと。
筒井順慶との養子話は立ち消えましたが、娘たちは
二人とも嫁いでいきました。
藤孝嫡男・細川忠興の妻となったのは、後に
細川ガラシャの名で知られるようになる
玉(珠)子です。
織田(津田)信澄は光秀の娘を妻としていたことで、
本能寺の変が起こった際には光秀と共謀して
いたのではないかと疑われ、四国渡海のために
駐留していた大坂で織田家家臣らにより
殺害されました。
信澄妻の生死は不明です。
天正2年には、蘭奢待切り取りや、長島での
一向一揆二万人の殲滅などがあり、翌天正3年には
長篠の戦いがありました。
長篠合戦直前の4月、信長は大坂方面に出陣し、
4月21日京都に帰還しています。
4月27日には京都を出発し、坂本から明智光秀の
船で佐和山へ渡る予定でしたが、急に風が出たため
安土・常楽寺へ上陸。
そこから陸路で佐和山へ至り、4月28日岐阜に
帰城しました。
「四月廿七日御下り。坂本より明智が舟にて
佐和山迄御渡海なさるべきの処、以外風出で候て、
常楽寺へ御上り候て陸を佐和山へ御成り、
四月二十八日辰刻、岐阜御帰城。」
信長は6月下旬の上洛の際にも坂本城を
利用しています。
坂本が岐阜と京都を結ぶ重要地点となっていた
ことがわかります。
「六月廿六日御上洛。其日佐和山にて少し御休息
なされ、早舟にめされ、坂本に至って御渡海。
少し風あり。」
7月1日、京都・相国寺を宿所とする信長のもとへ、
摂家・清華家をはじめとする公家や畿内近隣諸国の
大名らが、挨拶のため出仕してきています。
7月3日には宮中で東宮・誠仁親王が蹴鞠の会を
催し、信長は参内して見物しています。
この日は信長に官位昇進が伝えられましたが、
信長はこれを受けず、かわりに織田家の
家臣たちが、中国から九州地方の受領名を
授かっています。
これは信長の西国進出の意図を表したものだと
いわれています。
この時から明智十兵衛光秀は、惟任日向守
(これとうひゅうがのかみ)となりました。
「七月三日、信長御官位を進められ候への趣、
勅諚御座候といへども、御斟酌にて御請これなし。
併内々御心持候哉、御家老の御衆、
友閑は宮内卿法印、夕庵は二位法印、
明智十兵衛は惟任日向になされ、簗田左衛門太郎
は別喜右近に仰付けられ、丹羽五郎左衛門は惟住
にさせられ忝の次第なり。」

