※人気ブログランキングに参加しています。
よろしければバナーをクリックお願いいたします。
元亀4年4月、武田信玄が病没。
同年(7月に改元して天正元年)8月、余呉・木之本
あたりに陣取った朝倉氏攻めへとむかった
織田軍は、朝倉軍を蹴散らし、退却する朝倉軍の
追討戦に入り、越前に到るまでの間に
朝倉氏一族を討ち取ることに成功しました。
朝倉義景は一乗谷から大野郡賢松寺へと逃れて
いましたが、従兄弟の朝倉景鏡
(あさくら かげあきら)が裏切って、義景を
自刃させました。
ここに越前で100年栄えた大名朝倉氏は滅びの時を
迎えました。
この朝倉氏との戦いでは美濃の斎藤龍興も
戦死したそうです。
8月、信長は越前からとって返し、浅井攻めに
むかいます。
27日、秀吉が小谷城を攻め、浅井久政を自刃に
追い込み、9月1日には長政も自刃しました。
久政・長政の頸は京都で獄門にかけられ、
長政の妻・お市の方(信長の妹)は娘三人とともに
救い出されました。
10月には長政の嫡男で10才の万福丸(市が嫁ぐ前に
出生していたとされ、生母は不明)が捕らえられ、
関ヶ原で磔に架けられました。
この年9月には、以前信長を鉄砲で狙撃し逃げて
いた杉谷善住坊が捕らえられています。
善住坊は土中に身体を首だけ出した形で埋められ、
首をのこぎりで引き切るという残虐な方法で
処刑されました。
11月。足利義昭を若江城で庇護していた三好義継は
信長の怒りを買い、佐久間信盛らの攻撃を
受けました。
義昭は攻撃直前に脱出することに成功しましたが、
若江城は落城。
義継は自刃して果てました。
義継と結んで信長に謀反を起こしていた
松永久秀は、信長の説得を受けて降伏し、
許されています。
こうしてこの年、信長包囲網を形成していた主要な
人物たち…信玄、浅井氏、朝倉氏、三好義継が、
次々と消えていきました。
この年の10月頃光秀は、京都静原山に籠っていた
敵将山本対馬守を調略により切腹させ、その首を
北伊勢東別所の信長の陣に持参しています。
「去程に、京都静原山に楯籠候御敵山本対馬、
明智十兵衛調略を以って生害させ、頸を
北伊勢東別所まで持来り進上。」
明けて天正2年正月。
京都および近隣諸国の大名・武将たちが岐阜に
来て、信長に新年の挨拶をするために
出仕しました。
諸侯が退出したあと、信長と馬廻り衆だけの酒宴が
開かれ、そこに酒肴として北国で討ち取られた
三武将の首が供されました。
朝倉義景、浅井久政、浅井長政の首を
薄濃(はくだみ)にしたものです。
薄濃とは、髑髏に漆を塗り重ね、その上から
金泥などで彩色したものです。
小説やドラマなどには信長が髑髏を杯にしたとか、
その杯に注がれた酒を光秀に飲むよう強要
したことが謀反の一因となったなどと描かれた
ものがありますが、この酒宴の席に光秀はおらず、
信長と馬廻り衆だけの内宴であったことが
信長公記に記録されていますので、これが謀反の
原因になったというのは作り話です。
また、信長公記には薄濃が酒の肴として供されたと
書かれてありますが、それを杯にしたとは
書かれていません。
後世の人間が信長の残虐性を強調するために、
また、謀反の原因としてわかりやすい理由を
こしらえるために、不気味な酒宴の話を作りあげて
いったのではないでしょうか。
薄濃というと、真言密教の立川流が想起
させられます。
それを第六天魔王信長と結びつけ、信長が
三武将の首を立川流の儀式に使う髑髏本尊に
したのではないかということを書いた本も
ありますが、その説を裏付ける確たる証拠は
ありません。
そういう本の幾冊かを読みましたが、史実研究か
どうかはさておき、宗教についてよく調べてあり、
オカルト本として興味深く読みました。