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元亀四年(1573)7月。
織田軍は信長自身も参陣し、将軍足利義昭の籠る
槙島城攻撃に入ります。
織田軍は川上、川下の二手に分かれて宇治川を
渡り、槙島城を包囲しました。
源平合戦に倣い、平等院を囲んでの合戦です。
光秀は川下組に入っています。
「又川下五ヶ庄前川を西向に越され候衆、
佐久間右衛門、丹羽五郎左衛門、柴田修理亮、
羽柴筑前守、蜂屋兵庫頭、明智十兵衛………」
織田軍の猛攻に合い、義昭はあっさりと降伏します。
信長・義昭の連立政権とも言える体制は、ここで
完全に終了しました。
この後義昭は命を永らえましたが、各地を放浪する
流浪の将軍となりました。
将軍としての実質上の力を失い、これを室町幕府の
終焉とみることもできます。
こうして室町幕府最後の将軍足利義昭は都を
落ちて行きました。
常日頃は輿に乗り美しい行列で移動する
将軍御所の婦人たちも、取るものも取り合えず
徒歩で落ちて行ったそうです。
京に入った時には信長に守られ、草木もなびく
勢いだった義昭の落ち延びる様は、上下の人々から
「貧乏将軍」と指を指されて嘲笑され、
目も当てられない哀れさだったそうです。
「義昭は信長の恩を忘れて敵対したのだからここで
切腹させてもよいのだが、それは天の道に背いて
恐ろしいことであり、今後差し障りが出てくる
だろうから、命だけは助けることにして、後の世の
人々の批評に任せよう。」と信長は考えたのだと、
牛一は記します。
よく信長は神も仏も恐れない、宗教心を
持ち合わせていないと語られることがありますが、
信長が天道思想を持っていたことが信長公記を
読めばわかります。
歴史学者の神田千里氏によれば、天道思想とは
当時日本人が普遍的に持っていた思想であり、
天道教とも呼べるような信仰心のことだそうです。
現代の日本人もよく「お天道さまに顔向けが
できない」とか「天に唾する行為だ」と言ったり
しますが、日出処の国の人々が古来から
ごく自然に持っていた、太陽を崇める信仰心が、
「日本教」とも呼べるような一つの宗教的な
ものとなり、戦国時代、日本人みながその宗教観、
倫理観のもとに暮らしていたのではないかと
考えられるそうです。
魔王信長とてもその日本教のもとに暮らしていた
という一つの証拠が牛一によって残されたと
いえるのではないでしょうか。
将軍が都を去った後も、まだまだ織田軍の戦いは
続きます。
敵将山本対馬守は、槙島城陥落後も静原山に砦を
構えて抵抗を続けていましたが、信長は光秀に
命じてこれを包囲させました。
「山本対馬守静原山に取出を構へ、御敵として
居城なり。
明智十兵衛、仰付けられ取詰をかせられ、………」
信長は、槙島城陥落後すぐに例の大船にのり、
高島(滋賀県高島市)に出陣。
湖上から、敵方の木戸城・田中城攻撃をしようと
したところ、陸上から攻撃していた光秀が両城を
陥落させました。
光秀は静原山に包囲網を築きながら、さらに
木戸城・田中城攻撃に参加していたのでしょうか。
大忙しです。
そうして光秀は今堅田の戦いに続き、またも
功績をあげました。
信長は両城を光秀に与えました。
「七月廿六日、信長公後下り、直に江州高嶋表彼
大船を以って御参陣。
陸は御敵城木戸・田中両城へ取懸け攻められ、
海手は大船を推付け、
信長公御馬廻を以って攻めさせらるべき処、
降参申し罷退く。
則、木戸・田中両城明智十兵衛に下さる。」
7月21日、帰洛した信長はすぐさま朝廷に改元を
申し入れ、いくつかの候補の中から信長が「天正」を
選び、28日に改元となりました。
信長はかねてより元亀の年号が不吉だと、改元を
申し入れていましたが、義昭は反対していました。
義昭がいなくなったため、朝廷が信長の意向に沿う
形での改元が行われました。
この後光秀が静原山を包囲している間に、
信長は越前攻撃にむかいます。