池田に行った日 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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去年の夏、信長公記の作者太田牛一のお墓にお参りしてきました。
NHKヒストリアで牛一が採りあげられた回を見て
お墓が大阪にあると知って以来、一度訪れて

みたいと思っていました。


牛一のお墓のある佛日禅寺(通称で仏日寺とも

呼ばれる)は大阪府池田市にあります。
池田市はわたしの自宅から阪急電車に乗ってすぐの

ところです。
思いがけず近くに牛一さんは眠っていたのでした。

池田といえば、真偽は不明ですが斎藤一の愛刀は
「池田住 鬼紙丸国重」の作だといわれています。



現在の大阪府池田市、同・豊中市、同・箕面市の

あたりはその昔、摂津国豊島郡と呼ばれた

地域で、室町時代から戦国時代にかけて国人領主

池田氏が治めていました。



池田氏は応仁の乱から戦国時代にかけての攻防で
居城池田城をとられたり、また取り戻したりと戦乱を
くぐり抜けましたが、信長と足利義昭が上洛した

際に、信長の軍門に降りました。
そして義昭が将軍となった新政権の中で、当時の

城主池田勝正は摂津守護を任命され、織田軍の

中で重要な存在となりました。
「金ヶ崎の退き口」では木下藤吉郎、明智十兵衛と

並んで勝正が殿軍(しんがり)を務めたという

記録もあります。



しかしその後池田家では以前からあった内紛が

再燃し、勝正は家臣荒木村重や中川清秀等に

よって追放されてしまいました。
そして荒木村重は本拠を池田から伊丹の有岡城に

移したため、池田城は廃城となりました。
現在池田城跡は発掘調査を経て、戦国時代の

城"風"の施設が建てられ、一帯は公園 として

整備されています。




前置きが長くなってしまったので、仏日寺探訪の

記はまた次回に…。





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