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『信長公記』、光秀3度目の登場は、元亀元年(1570)
志賀の陣の段です。
朝倉氏攻撃のため越前へ侵攻していた信長は、
北近江浅井氏裏切りの報を受け、金ガ崎から
京へ撤退しました。
京から岐阜へと戻った信長は体勢を立て直し、
迎えた姉川合戦では徳川家康と協力し、浅井・朝倉
連合軍に勝利しました。
とはいえ浅井・朝倉軍は滅亡したわけではなく、
まだまだ健在でした。
しかもこの頃には信長と足利義昭との関係も悪化
しはじめていました。
義昭は、自分の行動を規制しようとする信長に
不満を持ち、信長の敵対勢力である浅井、朝倉、
三好勢、さらには本願寺などと呼応するように
なっていました。
こうして本願寺との十年にわたる石山合戦へと続く、
「信長包囲網」が形成されていくこととなります。
元亀元年七月。三好勢が摂津国へ渡ってきました。
中津川河口の野田城、福島城に結集した三好勢の
もとへ元管領一族である細川昭元や、水軍を率いた
雑賀衆等が集まり、さらには美濃を信長に奪われて
いた斎藤龍興も加わりました。
この事態に信長は岐阜から出陣し、摂津国・
天王寺へ布陣しました。
各地の味方を糾合しながらやってきた織田軍は
大軍にふくれあがり、三好方の武将を調略しつつ、
野田城、福島城へ迫りました。
(野田城・福島城の戦い)
一時は織田軍が優勢に見えましたが、そこへ
顕如みずからが率いる本願寺勢が襲いかかり
ました。
石山合戦の始まりです。
各砦に分散して戦っていた織田軍の武将たちは、
信長の危機を救うため本陣への結集を始めました。
さらに、近江からの連絡が途絶えていたのを不信に
思った信長が急遽近江の情勢を探ってみると、
9月20日、本願寺と呼応した浅井・朝倉軍が近江に
侵攻を開始していたことがわかりました。
浅井・朝倉軍は森可成の守る宇佐山城を
攻め落とし、各地を放火しながら京の都へと進軍を
続けていました。
その報を受けた信長は急ぎ野田・福島の陣を解き、
9月24日、南近江へ駆けつけました。
信長の迅速さに驚いた浅井・朝倉軍は、あわてて
比叡山へと逃げ上って行きました。
延暦寺の支援を受けた浅井・朝倉軍はそのまま
比叡山に立て籠もり、織田軍は坂本などふもとの
町に陣を布き、比叡山を包囲しました。
延暦寺が支援しているため織田軍は早期決戦する
ことができず、戦いは長期にわたり膠着状態が
続くこととなりました。
その間、信長の敵対勢力は各地で戦いをしかけて
きており、織田軍の危機的状況は続きました。
しかし11月末になり、信長は義昭と朝廷を動かし
講和を持ちかけました。
雪の季節になり本国越前との連絡が途絶えることを
恐れた朝倉義景はこの講和を受け入れ、12月14日、
織田軍は勢田まで後退。
浅井・朝倉軍は高島を通って帰国の途に着き、
志賀の陣は終わりを迎えました。
『信長公記』、志賀に陣を布く場面に光秀の名が
見えます。
「信長公其日は下坂本に御陣取り候て、廿五日、
叡山の麓を取りまかせ、香取屋敷丈夫に拵、
(中略)
此等をかせられ、穴太が在所是又御要害
仰付けられ、
簗田左衛門大郎・川尻与兵衛・佐々蔵介・
塚本小大膳・明智十兵衛・苗木久兵衛・
村井民部・佐久間右衛門・進藤山城守・
後藤喜三郎・多賀新左衛門・梶原平次郎・
永井雅楽助・種田助丞・佐藤六左衛門・中条将監、
十六首(かしら)置かれ、
(中略)
信長公志賀の城宇佐山に御居陣なり。