※人気ブログランキングに参加しています。
よろしければバナーをクリックお願いいたします。

人気ブログランキングへ
『信長公記』に光秀の名が二度目に見えるのは、
巻三「越前手筒山攻落されの事」の段です。
元亀元年(1570)、織田・徳川連合軍は、朝倉攻めの
為、越前に侵攻しました。
永禄十一年(1568)、信長が足利義昭を奉戴して
上洛し、義昭が征夷大将軍となった後、信長は
朝倉義景に対して二度にわたり上洛を要請
しましたが、義景は二度ともそれを拒否しました。
これは義景が信長に従属することを嫌ったため
だとされています。
朝倉氏の領国である越前は美濃と京との間に
位置しています。
信長は義景の上洛拒否を機に、越前という要衝の
地を抑えるため、朝倉氏制圧に打って出ました。
4月25日、越前へ侵攻した織田・徳川連合軍は
朝倉方の手筒山城を攻め落とし、翌日には
朝倉景恒が立て籠もる金ガ崎城を下しましたが、
そこへ北近江の浅井長政が背いたとの報せが
入りました。
よく知られているように、長政の妻は信長の妹
お市の方です。
信長ははじめ長政が裏切ったという報せを
信じようとしませんでしたが、やがて方々から
浅井氏裏切りの報が入るようになり、事実だと
わかりました。
信長は越前からの撤退を決め、金ガ崎城には
木下藤吉郎を殿軍(しんがり)に残し、本体は
朽木元綱の領地である朽木谷を越えて京に
撤収しました。
次いで、明智光秀と丹羽長秀の二人を若狭へ
派遣し、武藤友益(若狭武田氏の家臣。この頃
若狭武田氏は朝倉氏に従属し、信長と交戦
していた)から人質を取ってこさせました。
光秀と丹羽長秀は武藤友益の母を人質に取り、
武藤の城を破却し、五月六日帰京して信長に
報告しました。
「………江北浅井備前手の反履の由、追々
其注進候。
然共、浅井は歴然御縁者たるの上、剰江北一円に
仰付けらるゝの間、不足これあるべからざるの条、
虚説たるべきと思食候処、方々より事実の注進候。
是非に及ばず、の由候て、金か崎の城には
木下藤吉郎残しをかせられ、四月晦日、
朽木越をさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に
至つて御人数打納れられ、是より、明智十兵衛
・丹羽五郎左衛門両人若州へ差遣はされ、
武藤上野人質執候て参るべきの旨御諚候。
(中略)
然間、江北州路次通りの御警固として、稲葉伊豫
父子三人・斎藤内蔵人佐、江州守山の町に
置かせられ候処………」
この手筒山攻略の段には、光秀の重臣斎藤利三の
名が初登場しています。
守山の町に火をかけた一揆勢を、稲葉一鉄父子と
斎藤利三が迎え撃ち、多くの一揆勢を追い崩し
切捨てる活躍をしたと記されています。
この頃斎藤利三はまだ光秀の家臣ではなく、
稲葉一鉄に仕えていたことがわかります。
「金ガ崎の退き口」(かねがさきののきくち)として
有名な信長の撤退戦、この殿軍には木下藤吉郎
だけではなく池田勝正や明智光秀もいたという
記録もありますが、信長公記には木下藤吉郎の
名前しか記されていません。
実際のところはどうだったのでしょうか。