北有馬太郎の弟  中村主計 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

北有馬太郎(本名・中村貞太郎)には弟が四人あり、
そのうちの一人、中村主計重義が歴史上に名前を

残しています。



北有馬太郎の日記によると、主計は嘉永元年には

大坂に上り、その年の秋には京都入りしています。
『野史台維新史料叢書』に載る中村主計の伝記には
「肥前島原北有馬村ノ人有馬太郎ノ弟ナリ。
太郎ハ既ニ幕府ノ獄ニ下リ毒殺セラレタリ、主計ハ

幼ニシテ国ヲ去テ筑後ニテ成長シ、力ヲ王事ニ盡シ

河内介ノ義弟トナリ大坂ニテモ種々盡力セシニ

四月廿三日ノ件ニ至テ伏見寺田屋ニアレハ
鹿児島ニ潜スルトテ西国ニ赴キシニ日向国細島ニテ

五月七日ニ殺サレタリ」
とあります。



北有馬太郎は、田中河内介という中山家諸大夫と

義兄弟の契りを結びましたが、太郎の実弟である

中村主計も河内介と深い親交がありました。
『中山忠能履歴史料』によると、主計は、中山忠能が

非常の事態に際して屋敷を立ち退く際には、その

輿脇を警護する役目を命ぜられていました。
主計は、中山家に出入りする王室書生と呼ばれる

人たちの一人だった可能性があります。



中山忠能は、明治政府の議定となった人物で、その

娘の中山慶子は孝明天皇の典侍であり、

明治天皇の生母です。
河内介は幼少の頃の明治天皇の養育係を勤め、

非常に親しまれた人でした。



その河内介は中山家を辞した後、京で尊攘派の

志士たちと交わるようになりました。
中山家を去ったのは、忠能が公武合体派の

公卿であり、和宮降嫁を推し進めた一人だったから

だと云われています。


河内介は、義兄弟北有馬太郎の紹介で真木和泉や

清河八郎らと交際し、そのうち薩摩藩邸に出入り

するようになり、真木や平野国臣、吉村虎太郎らと

謀り、島津久光の上洛に合わせた義挙を

計画しました。
これが文久二年(1862)の寺田屋騒動と呼ばれる

事件となります。
この騒動には、河内介の息子田中瑳磨介、そして

中村主計も加わっていました。




志士たちが暴発しようとしている噂を聞いた久光は、

これを抑えようとし、伏見寺田屋に集まっていた

過激派の薩摩藩士や他藩の浪士たちを取り押さえる
騒動となりました。
薩摩藩士の同士討ちとなった激しい斬り合いを

真木和泉と河内介が説得し、ようやく騒動は治まり

ましたが、死亡者負傷者多数、生き残った者も後に

切腹となった人が幾人も出る結果となりました。


騒動に加わった薩摩藩士の多くは謹慎処分となり、

真木和泉は久留米藩に引き渡されましたが、

引き取り手のない河内介親子、そして主計と

他数人は薩摩へ護送されることとなりました。
これは護送途中に暗殺されることを意味して

いましたが、それを知らずに河内介や主計らは

船上の人となり、日向沖へ差し掛かったところ、

田中親子は斬殺されました。
別の船に乗っていた主計らは、日向細川島沖で

決闘と称する斬り合いを仕掛けられ、やはり

斬り殺されてしまいました。
殺害を命じたのは久光だったという説や、

大久保一蔵(利通)だったという説もあります。



主計が非業の死を遂げたのは、兄・北有馬太郎が

横死した翌年のことでした。
河内介親子の墓は遺体の流れ着いた小豆島に、

日向細島で斬り殺された主計らの墓は細島に、

それぞれ地元の住民たちが手厚く供養して墓を

守っているそうです。
主計の墓はもう一つ、伏見・大黒寺にあります。
大黒寺には、寺田屋で亡くなった薩摩藩烈士たちの

墓が作られています。





ペタしてね


読者登録してね




人気ブログランキングへ