北有馬太郎という人 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

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先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

北有馬太郎、本名中村貞太郎という人のことは

それまでまったく知りませんでした。
その名前は、幕末の攘夷活動家で新選組結成の

きっかけとなった浪士組の発案者である清河八郎の

仲間として、清河研究者の間で
少し知られているようです。



中村貞太郎こと北有馬太郎(以後、北有馬太郎で

統一)の実家中村家は、島原藩の別当職筆頭という

島原藩士をとりまとめる役目を勤める家柄で、

屋敷は本陣として使われました。
中村家が島原藩の行政の医療部門を担当していた

ことが、島原の松平文庫に保管されている島原藩

上級藩士名簿で確認できます。
その関係で、島原で医家をしていた三宅家との縁が

できたものと思われます。



北有馬太郎は、文政10年(1828)、島原・北有馬村

北谷という土地で生まれました。
太郎の先祖である北谷中村家の初代は、島原

日野江城主有馬晴信の家臣中村源兵衛の次男、

惣左衛門重友という人です。
慶長十年(1605)、有馬家は断絶しました。
中村源兵衛は浪々の身となりましたが、その後に

やって来た藩主松倉氏とともに原城から島原の

城下町へと移り、総別当職を勤めるように

なりました。



北有馬太郎の実家は、太郎が七歳の時に親類との

争いがあり、島原を離れ久留米へ移住しています。
太郎一家は貧しい生活を余儀なくされたようですが、
そんななかでも幼い頃から学問を好んだ太郎は

貧しいながらも有名塾に入るなどして勉学に励み、

久留米の神官真木和泉らと交流を重ねるように

なりました。
当時神官といえば攘夷の先鋒だったそうです。
その影響もあったのか、太郎も攘夷活動を行うように

なり、九州各地や江戸、京へと足を運んでいます。



江戸で安井息軒と知り合った太郎は息軒塾に入門

することとなりました。
息軒塾は、当時儒学塾では一番と言われ、門弟には

後の歴史に名を残すことになる錚々たる人物たちが

ひしめいていました。
息軒は儒学者であるとともに世界情勢に対する

該博な知識を持っていた人で、太郎も欧米列強の

侵略政策に関して考えることが増えていったと

想像できます。
太郎が浦賀へ黒船を見に行った時に詠んだ二首の

歌が残っています。



鎌倉の時宗ぬしは世のなかの 

男のなかの男なりけり



敷島の我日の本の太刀あるを 

見せはや四方のあたし国人




このような歌を見ると過激な攘夷志士の姿を思い

浮かべてしまいますが、太郎の親友倉田施報が

書き残した『北有馬百之略傳』(百之とは太郎の
別名)には太郎のことを「事に処すに誠実を尚」んだ

とか、「書に於て読ざる所」ない学級の徒であった

とか、「自治の厳なる古賢に譲らざる」求道者で

あったなどと記してあります。
また、上京後は田中河内介と義兄弟の契りを結ぶ

など、名のある多くの有志者と深く交流しています。
さらに太郎は堂上公家野宮卿を介して旗本久貝

因幡守正典(後の大目付)の屋敷に奇遇し、子弟や

家臣の教育を託されていました。
これらのことや安井息軒の長女須磨子と結婚して

息軒塾の塾頭になっていることなどを考えると、

太郎は学者として若いながらも優れた人物だった

ことが見て取れます。



いずれにしても太郎は攘夷活動を熱心に行うように

なり、師匠である息軒や妻子に迷惑がかかるのを

避けるため、妻子を離縁し江戸を離れ、埼玉で塾を

開いて暮らしはじめました。
虎尾の会の主催者清河八郎と知り合う前、

埼玉時代に、清川の周囲の人々との付き合いが

はじまっていました。
埼玉出身の医者西川練造や、同じく埼玉出身の

笠井伊織などを通じて清河の虎尾の会に入った

ようです。



万延元年(1860)、江戸の神田お玉ヶ池にて

虎尾の会結成。
その二年前の安政五年には、三宅艮斎が創立

メンバーの一人となったお玉ヶ池種痘所(後に

東大医学部に発展)が開かれています。



万延二年(1861)、虎尾の会のうちの何人かが

駐日米国総領事館の通弁官ヒュースケンの暗殺に

加わり、虎尾の会は幕府から監視されるように

なりました。
そんな中、清河が幕府の手先と
争って相手を

斬り殺し逃亡しました。
清河の妻、そして太郎を含む虎尾の会のメンバーも

連座して捕縛されてしまいました。
清河は捕らえられた同志を救うため、浪士組結成を

画策しますが、太郎は救い出される前に牢の中で

病死してしまいました。
劣悪な環境に耐えられず衰弱していったようです。



清河は逃亡中にも各地を遊説しており、真木和泉

らと交流できたのは太郎の人脈のお陰であった

そうです。
太郎の墓は回向院にあります。

太郎の遺した男女二人の子どもたちは安井息軒に

引き取られ、長男の安井小太郎は東京大学を

卒業し、学習院やその他の名門校で五十年に渡り

教鞭を執りました。
その間、斯文会、廻瀾社などに参与し、

「最後の漢学者」「我が国漢学会の泰斗」と

称されました。





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