明智光秀という人  その1 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

明智光秀という人が歴史上に現れたのは、

足利義昭が織田信長の武力を頼りに上洛しようと

していた頃が最初です。
それ以前の前半生についての記録はほとんどなく、
出自や出生については謎に包まれています。

明智家の系図類はいくつも残っていますが、
それらに記されたことはどれも食い違っていて、
多くの研究者が解明しようと取り組んでいますが
いまだに決定的なことは断言できずにいます。



光秀の名が見える系図は、

『続群書類従』所収「明智系図」「尊卑分脈」、
『土岐文書』『新撰美濃誌』所収「土岐明智氏系譜」、
『系図纂要』所収「明智系図」などです。


それらの記録から、美濃一帯を200年にわたり

治めた守護大名・土岐氏が光秀の出自であることは

ほぼ間違いないとされています。



禁裏御蔵職をあずかっていた光秀と同時代人の

立入左京亮(宗継)は、自身が見聞きしたことの覚書

『立入左京亮(宗継)入道隆佐記』を残しています。
そこに「美濃国住人ときの随分衆也、
明智十兵衛尉、其後従上様被仰出、

惟任日向守になる、名誉之大将也、

弓取はせんじてのむべき事候」と書かれていて、
光秀が土岐一族であったことが確認できます。




土岐氏というのは鎌倉時代から栄えた、清和天皇を

祖とする清和源氏です。
清和天皇の孫である源経基(清和源氏初代)の

嫡男が源満仲で、満仲は摂津国多田に土着して

摂津源氏(多田源氏)の祖となりました。
その満仲の嫡男が源頼光で、光秀は

源頼光流と言われています。



土岐氏は侍所の五職の一角を占め、最盛期には

美濃・尾張・伊勢の三ヶ国を治めるほど

栄えましたが、足利将軍家を脅かすほど大きく

なり過ぎたため、足利義満の陰謀によって力を

削がれ、次第に零落していきました。



土岐氏は勢力を大きく伸ばしていった時代に、

いくつもの支族に分かれていきました。
支族は所領地の土地の名を名乗るように

なりました。
明智家もそのうちの一つです。
しかし光秀が世に出てきた頃には名門土岐氏は

斉藤道三に乗っ取られ、実質的に

消滅していました。
光秀が有職故実に詳しく教養の深い智将だと

いわれる背景には、この土岐氏の

血筋があるのです。










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