雲仙には三宅家の遠縁にあたる何軒かの
温泉旅館があります。
そのうちの一つがホテル東洋館
。
もう一つは「湯元ホテル」
といいます。
湯元ホテルと三宅家の関係は少々長い話と
なりますがよろしくお付き合いください。
わたしの曽祖父は島原藩士中村家の出身です。
曾祖母の代、三宅家には男子がいなかったので、
中村家の又彦という人が三宅家の婿養子と
なりました。
その又彦の実姉は中村シモという人です。
島原図書館内松平文庫に島原藩の上級武士だけが
載せられている名簿があり、それを閲覧したところ、
中村家の本家は島原藩で別当職筆頭という
家柄だとわかりました。
屋敷は本陣として使われ、幕末には勝海舟が
坂本龍馬を供として宿泊したことは以前
拙ブログ に書きました。
中村家は島原藩の医療関係の職務を担当している
ことも名簿からわかりました。
それで代々医者である三宅家との繋がりが
想像されます。
又彦とシモ兄弟、そしてその実父である中村道斎の
家は、本陣中村家の分家筋にあたります。
道斎はシーボルト三哲の一人といわれた人から
西洋医学を学び、島原半島にはじめて西洋医学を
持ち込んだ人であると湯元ホテル経営者のK藤家に
伝わっていますが、三哲についてはわたしは
未調査です。
これは今後の課題の一つです。
道斎の子孫は天草にわたり、現在も天草で医師を
しているそうです。
又彦は医家三宅家の婿養子となりましたが、
医者にはなりませんでした。
時代はちょうど日本が大陸や南洋へ進出していた
時期にあたり、又彦は農業改革者として結婚後
南洋に渡りました。
医者になるつもりではいたようですが、その前に
どうしても断れない仕事があり、馬来半島バトパハ
(現マレーシア、ジョホール・バルのバトゥパハ)へ
赴き、その地で急死してしまいました。
詳しいことは今となってはわかりませんが、
おそらく現地の熱病に罹ったのではないかと
思われます。
当時又彦と妻との間にはすでに跡取り息子が
生まれていたので家は途切れずに続きましたが、
医家としては又彦の義父の代で終わりました。
又彦が訪れた当時から10数年ほど後のバトパハの
様子が、金子光晴の『マレー蘭印紀行』 に
よく描かれています。

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