2010年6月。
梅雨のまっただ中、いよいよ島原へ向けて
出発しました。
大阪・伊丹空港から長崎空港へ。
大河ドラマ龍馬伝の年だったので、長崎空港は
龍馬一色でした。
島原入りの前に三宅病院院長の親族にお会い
するため、大村市にある長崎空港から船に
乗りこみ、長崎市内に向かいました。
この日は晴天で、約30分の大村湾クルーズを
楽しみました。
長崎市側の港まで三宅院長の甥にあたるS田氏が
車で迎えに来てくださっていました。
閑静な住宅地にあるS田家にお邪魔すると、
S田夫人がご馳走を用意して歓迎して
くださいました。
はじめてお会いしたにも関わらず、S田ご夫妻は
わたしを大歓迎してくださり、たくさんお話を伺う
ことができました。
S田氏は三宅院長の姉の長男にあたる方で、
院長のもっとも身近な親戚にあたるため、
院長が亡くなった後、病院や個人の遺品の整理を
されたそうです。
院長は跡継ぎを残さず急死されたため、後を
片付けるのがとても大変だったそうです。
病院というのは劇薬などを含む薬品を置いている
ため、管理者がいなくなると当然営業はできず、
すぐさま閉鎖しなければならなかったので、個人の
遺品もゆっくり整理する余裕はなく、まとめて業者に
ひきとってもらったそうです。
中には家系に関する貴重な資料もあったかも
しれないが今となってはもうわからないと
いうことでした。
後日その中のひとつをわたしが長崎の資料館で
見つけS田氏に問い合わせてみましたが、S田氏は
やはり詳しいことはご存知ではありませんでした。
S田氏のお話でわかったことは、三宅家は侍の家
だが島原藩士ではないということと、三宅秀の
子孫であるということの二つでした。
三宅院長は三宅艮斎の兄弟の直系子孫だという
ことが、S田家の家系図と除籍謄本により
わかりました。
艮斎は江戸へ出て行きましたが、島原北有馬村に
残った兄弟の子孫がS田氏というわけです。
島原・南有馬村に三宅元哉という医者がおり、
その長男玄碩が北有馬村に分家しました。
玄碩の子どもで北有馬村から江戸へ出たのが
艮斎。
元哉の次男で、次男でありながら南有馬の家を
継いだのが文泰。
文泰の子孫がわたしになります。
三宅院長の姉が嫁いだS田家というのは、なんと
あのキリシタン大名大友義鎮(宗麟)の
支族だそうです。
S田家の家祖は大友駿河守という人で、耳川の戦い
のあと居を構えた土地の名からS田と名乗るように
なったとか。
明治維新の頃の当主は島原藩大参事となり、
その後日光東照宮権宮司になられたそうです。
会津藩主松平容保公が日光東照宮宮司と
なられたのと同じ頃のことでしょうか。
容保さまと関わりがあったりしたらうれしい~。
大友宗麟といえば、遠縁の子伊東マンショ(祐益)を
名代として、天正遣欧少年使節に加えています。
戦国鍋TVの「GO!天正遣欧少年使節」
名曲ですね~。
今もケータイ(今時スマホではなくガラケー)の
着メロにしてます。
わたしは千々石ミゲル派でした~。
家系調査をはじめてみてひとつどこかをつついて
みると、次々に知ってる名前が出てきて、それが
おもしろくてやめられなくなっています。
S田氏のお母様は数年前に亡くなられていて、その
遺品の中にS田氏も知らなかった家系図が
あったそうです。
ありがたいことにその複写をいただきました。
島原の郷土史などから三宅家の先祖は熊本から
来たということがわかっていたので、その家系図を
もとに熊本藩を調べてみることにしました。
お話をうかがったあと、車で10分弱ほど
いったところにあるS田家の墓地をお参りしました。
S田家のお墓の隣には、島原から移された
三宅院長のお墓もありました。
三宅院長の名前のお陰で、島原のどこへ
行ってもスムーズに調査を行うことができたし、
院長が長年にわたって続けてきた研究のお陰で
三宅藤兵衛と島原三宅家の関係を後日証明する
こともできました。
S田氏からいただいた家系図は近年に誰かによって
調査され書かれたもののようで、それはおそらく
院長の手になるものと想像しています。
島原入りの前から院長の名前がわたしの
前に現れて、行く方を教えてくれているように
調査が進んでいきました。
お墓にお参りできて感激でした。


