
【舞と空手】
「唐手の起源については……(中略)……沖縄固有の武芸にして田舎の舞方なるものが、いわゆる唐手の未だ発達せざる時代のそのままであろう」
これは1914年に首里手の大家、安里安恒(あさとあんこう)の談話として、船越義珍(ふなこしぎちん)が出した空手に関する一文です。
その6年前に発表された糸洲安恒(いとすあんこう)の「唐手(糸洲)十訓」の中の「唐手は支那(中国)より伝来した」と書かれた一文に対する反論文だと言われています。
「舞方(メーカタ、ミイカタ)」とは闘争術を振り付けた踊りで、一説にはそれが時代と共に、空手の技と舞踊に分かれていったと伝えられていますが、実際にはこの「舞方」が存在したと言う文献はなく、また実物も残されてはいません。
しかし「空手」と「琉球舞踊(りゅうきゅうぶよう)」は似通っている所がいくつもあると言われており、例えば沖縄の古典舞踊のひとつ「二才踊り(にせーおどり)」には空手の技がそのまま使われていますし、「ひねり手、こね手、ムチミ、ガマク」などの舞踊用語が空手用語として、そのまま使われてもいます。
そして何より、踊りの柔らかな動きは空手の受け技に通ずるものがありますよね。
この舞踊と空手の結びつきこそが沖縄空手がいかに「型」を大切にしているのかに繋がっているのです。
昔から沖縄の人々にとって「踊り」は日常生活になくてはならないものだったのでしょう。
「喜びも悲しみも、ごちゃまぜにして皆で踊って分かち合う」
これこそが沖縄の踊りなのです。
琉球舞踊の祖は「踊り奉行(おどりぶぎょう)」の人達だと言われています。
この踊り奉行と呼ばれる、世界でも非常に珍しい官職は、中国からやって来る「冊封使(さっぷうし、さくほうし)」の一団を歓待する為に設けられた役職です。(冊封使とは中国の皇帝が臣下にある国の王を任命する為の使い)
その都度、踊りや音楽の演出や監督をして、日本舞踊、能、狂言、歌舞伎などをとりいれた「組踊り(くみおどり」と呼ばれる舞踊劇を作ったと言われています。
一度に来る冊封使の一団は総勢400人にも及び、約半年間も滞在したそうです(1404年~1866年まで22回来た)。
また琉球王国からは2年に1回「進貢船(しんこうせん)」と呼ばれる中国との交易船を出し、その中で様々な中国文化を採り入れていったようです(音楽、楽器、踊り、建築、拳法など)。
沖縄特有の楽器「三線(さんしん)」は1400年頃にその原型が伝わったそうです。
琉球王国の宮廷で三線が正式に使われ始めたのは1600年代に入ってからで、ちょうど同じ頃に空手の原型も根付いたと考えられています。
太平の世となって武器の衰退と入れ替わるように、徒手の闘争術が発展していったのですね。
沖縄の踊りと言えば「エイサー」が有名ですね。
「太鼓エイサー」や「創作エイサー」など今や芸能の側面もあるエイサーですが、その歴史は古く400年とも500年とも言われています。
旧盆に祖先をあの世へ送り出す為の「念仏踊り」がその源流だと言われています。
エイサーは地域によって特色がありますが、空手に関係の深いエイサーとして有名なのが、かつての千原(せんばる)集落(今は嘉手納基地)に伝わる「千原エイサー」です。
その踊り手は男性のみで、空手の手さばき、足さばき、型などを採り入れたダイナミックな踊りが特徴です。
昔から琉球舞踊の踊り手には空手の経験者も多かったよう
で、琉球創作舞踊には「武の舞(ぶのまい)」と呼ばれる空手の動きをとりいれた踊りもあり、沖縄では主要な演目のひとつになっているそうです。
ところで踊りや唄の時の「ヨイサーサ」や「ハーイーヤ」などの掛け声は「ヤーレンソーラン」や「サノヨイヨイ」などの囃子言葉(はやしことば)と同じで、唄や踊りを盛り上げる役目があります。
同じように空手も勢い付ける為に「セイ!」や「エイサ!」などの掛け声や気合いを入れます。
全体稽古では、この掛け声がいい意味での緊張感を生むのです。
ちなみに立ったり座ったりする時に思わず出てしまう言葉「どっこいしょ」は「よっこらせ」や「よいしょ」や「ソーレ」などの言葉の語源と言われています。
その言葉の源流は「どこへ」と言う言葉であったり、「ろっこんしょうじょう」と言う仏教用語であったりと色々と説がありますが、日本語との共通点が多いと言われるヘブライ語には「イヨイショ」や「ドッコイシャ」なる言葉があるそうですよ。
日本最古の踊り子は神話に出てくる女神「アメノウズメ」で、闇に包まれた世界で踊りを披露し神々をなごませ、ふたたび世界に光をもたらしたのです。
『花咲く空手稽古風景』
ありがとうございました。
押忍 織田