
【三戦(さんちん)】
「南船北馬(なんせんほくば)」という格言が中国にはあります。
「運河が発達している南方の人々は、もっぱら船で移動をし、平野が多い北方の人々は馬を使って生活する」と言った意味合いがあります。
その地域性に根ざし「南方」では、狭い空間でも戦える術が工夫され、近距離戦の「手技」が発達しました。
一方、制約の少ない「北方」では大きな動きの「足技」が生み出されました。
この、揚子江を隔てた北と南の武術の特性は「南拳北腿(なんけんほくたい)」と呼ばれ、カンフー映画の題材としても広く知られています。
「天下のクンフー(カンフー)少林より出ず」と言われる程、少林拳が中国武術に与えた影響は大きいと言われています。
その起こりは、インドから渡来した「達磨大使(だるまたいし)」が、禅宗仏教を広めるべく河南省嵩山(すうざん)に「少林寺」を開いたのが始まりです。
仏教弾圧によって、寺はのちに存亡の危機に立たされますが、仏僧達が立ち上がり武器などを手に戦ったのです。
のちにその仏僧達は拳法の腕を磨き南へと南下し、それが「南派少林拳」「北派少林拳」と呼ばれるようになったのです。
極真空手の祖でもある剛柔流は、この「南派少林拳」の影響を受けており、その中の「白鶴拳(はっかくけん)」が元になったのではないかと言われています。
白鶴拳は鶴の舞を動きに取り入れていて、南派拳法の「五祖拳」と言われるもののひとつです。
南派拳法の特徴は「虎、鶴、鷹、龍」など動物の動きを真似た「象形動作」が多く含まれており、私達の型にも、鷹や獅子、龍の動きを取り入れたものが数多くあります。
ちなみに中国では「少林拳」のような筋力を鍛え、剛の力を用いるものを「外家拳(がいかけん)」と呼び、太極拳に代表されるような呼吸法などに主眼を置いたものは「内家拳(ないかけん)」と呼ばれています。
南派少林拳は「三戦(さんちん)に始まり三戦に終わる、三戦練って死に至る」と言われるくらい、「三戦」は重要な基本型として位置付けられています。
その流れをくむ剛柔流や上地流などの沖縄空手の流派も三戦は「憲法」と言われる程、重要な型だと考えられています。
極真空手にも当然「三戦」の型はありますが、最高型としての位置付けではなく、主に基本稽古や移動稽古での立ち方や歩法として用いられています。
「三戦」は立って行う瞑想法「立禅」を母体として生まれたのではないかと考えられています。
今では「あれも三戦これも三戦」と言われるように、その姿は流派によって違いがあるようですが、共通してるのは「呼吸と動きの一致」と「下半身の力の入れ」と半円を描く「すり足」です。
三戦の練習段階では、まず呼吸と動きが合ってるかどうかを確認する為に、呼吸音は大きく発します。
そして動きと呼吸が合ってきたのなら、むしろ大きな呼吸音は見せるべきではないと言うのが、武術としての正しいスタンスなのだと思います。
型は様式美ばかりではなく、「闘争術」も兼ね備えている事を忘れてはなりません。
「三戦立ち」は最初かなり不自由な立ち方に感じます。
空手を始めたばかりの子供達は、この「カカト」を極端に外に張り出す立ち方がうまく出来ません。
しかし空手においては、一見不自由に思えるこの立ち方が、闘争に必要な「上虚下実(じょうきょかじつ)」《上半身の力が抜け、下半身に力がこもっている》を生み、下半身からヒットマッスル(パンチの筋肉系)、ヒットマッスルから拳に伝わる力のルートを作り出すのです。
「三戦立ち」で、つま先(膝)が内側に向く独特の立ち方は、突きの力を逃がさない為でもあります。
突きの進行方向と、その手と同じ側の膝の向きが合ってないと体重が乗らないのです。
あと、膝は膝頭が左右ともに親指の真上にくるあたりまで曲げる事も必要です。
移動稽古や型での三戦歩行の際は、半円を描きながら歩を進めます。
その動作は相手の前足をすくう動きであったり、相手のアウトサイド(斜め後ろ)に入る為のステップ(右足が相手の右足奥に入る)であったり色々考えられますが、まず一番の目的は「身体をひねらずに歩を進めること」にあります。
「ひねる」という動作はスポーツにとっては力を生み出す為の大切な要素ですが、武道では「身体のぶれ」が最大のスキになってしまうおそれもあるので、「地面を蹴らずに歩を進める」この三戦歩行で揺れを最小限にする動作を覚えるのです。
両足に込めた力と半円動作が「すり足」を活かし、上半身と下半身の動きを切り離して、揺れを少なくしているのですね。
ちなに何故右足が前なのかは、南派少林拳の五祖拳が常に右足が前である事からきているようです。
中国の道教の歩行が日本に伝来し、「反閉(へんばい)」と呼ばれるようになりました。
陰陽道(おんみょうどう)をはじめ、様々な儀礼や作法、あらゆる舞踊の基礎として、「反閉」は広まったのです。
その源流は中国最古の伝説の王朝「夏王朝」の始祖「禹王(うおう)」の歩行に辿り着くと言われています。
大規模な国の治水工事に奔走した禹王は足を痛め、次第に引きずって歩くようになり、人々はその歩き方を「禹歩(うほ)」と呼ぶようになりました。
この摺るように歩く禹歩が反閉として日本に入り、神道儀式などの「邪気払い」や豊作祈願などの「祀り事」の歩行法になっていったのです。
日本人が持つ「信仰心」に禹歩の歩き方が馴染んだのではないかと考えられています。
そこから「すり足」という言葉がうまれ、伝統芸能(能や狂言)から発展して、次第に茶道、日本舞踊、武道などの基本動作になっていったのです。
元来「道場」は神聖なる場所であり、「仏教の奥義を学ぶ場所」でもあり、また「神聖なる霊場」でもあったと言われています。
芸能に見るような「様式美」を重んじるところも武道には多くあります。
それは「格式張った挨拶」や「礼」の仕方にも表れています。
武道における「すり足」に関しては昔から色々と言われていますが、そのような「様式美」や「信仰心」から「すり足」が定着していったのかも知れませんね。
ちなみに相撲の「四股」も「すり足」と同じ儀礼があり、地面から出てくる悪霊をつま先(足裏)で踏んで清めると言った意味があるそうです。