※筆者の考えであって、何か伝統的な修行方法を記載したものではございません※

 

まず、丹田とはなんだろうか。

なんとかチャクラだとか、神経叢がどうだとか、呼吸法がどうだとか、歩き方がどうだとか、いろいろな記載があるが…

たぶん、それらを実践して丹田らしきものが形成されることは永遠にないと思う。

まずもって、そもそも論として、丹田の状態や定義が世の中に正確に伝わっているかどうかも怪しい。

つまり、あるかどうかも怪しい。

しかしながら、無明庵(筆者が、一応その理論を是と考える書籍群のこと)では丹田の存在を認めているので、筆者も採用したい。

 

その前に、事実確認として、当然の前提を確認したい。

 

 

~ここから開始~

「準備行為は緊張を増幅させる。」

 

これは、一定レベル以上のスポーツ経験者や試験といった、いわゆる真剣勝負経験者なら誰でもわかることであるが、勝負事には「緊張」がつきものである。

(ここでいう「勝負事」には、「ギャンブル」などの偶然の要素が大きい物事は含まない)

 

スポーツの試合、試験当日、誰でも身体が緊張し、思うように動かない。

 

その緊張を増幅させるものがある。

それは、「準備」である。

 

成功者はよく言う。準備が大事、だと。事前の準備行為で全て決まるのだと。

 

しかしながら、準備に費やした時間や特別性は「負けられない」「負けることが許されない」「今までの準備に費やした労力を失う」「あれだけ準備したのに負けたとなると、自分の能力不足が浮き彫りになる」といった感情を惹起する。

 

その結果「負け」に対する感情的なリスクが増幅し、その結果、緊張も増幅するのだ。

 

この緊張感は、とても苦しく、ストレスになる。

入念に準備してきた者ほど、その緊張は想像を絶するものになる。

 

そのため、「準備しない」ことを選ぶ人間もいる。

しかしながら、準備は絶対に必要である。

 

準備したことによってプレッシャーが降りかかったとしても、それは、「準備した者だけに許された精神状態」である。特別なものだと感じなければいけない。

入念に準備された後の実践での緊張は、ただの単なる「あがり」とは性質を異にする。

 

準備には多くの時間が必要であり、多くの時間は人生と命そのものである。

人生と命をかけた真剣勝負での緊張は、その人間の精神を強く、太く、大きくする。

 

~ここまで~

 

以上が、前提事実の確認である。

 

これは、私が野球を趣味として行っていることから気づいたのであるが、緊張状態に入ると、

「目の前」に意識がどうしても集中してしまう。体の状態などどうでも良くなり、「目に見えること」を優先しようとする。

細かい体の状態や、全体の雰囲気などに、「気が回らない」のである。

 

私は、これこそが丹田の欠如なのではないかと考える。

過緊張の状態で、視覚情報に偏った神経を、そのときどき、その環境に応じた位置を中心に感じることができるのが、いわゆる「丹田」の能力なのではないかと。

 

運動であれば、自分の重心(当然、股関節の少し上である)に気を配った身体操作術である。

目に偏り、手に偏り、腕に偏った神経を、まず自覚し、そして、身体の重心に戻せるくらいの、「精神の状態」こそが「丹田」であろう。

 

そして、たぶん丹田は呼吸しても瞑想しても育たないと思う。

緊張の勝負の連続に身を置き、その都度、偏った自分の神経・意識を身体の重心に引き下げるという行為をする他ないだろう。

つまりは、一定程度の緊張感をもった勝負をこなし、正しい身体操作をそのときどきに把握するということを続けるしかない。

 

そして、一定程度の緊張感をもった勝負をするには、ある程度 時間=人生=命 をその勝負の準備に割く必要がある(それか、負けたら死ぬという勝負をするか)。

 

ただ、腹をポコポコやってるだけじゃ、単なる腹の出た中年になるだけ…。

 

 

ここから、自我復元との絡みになるが……

中心技法と同じく、意識や感覚の中心を意識的にどこに置くか、というのはトラウマ堀やAC人格解除を同時に行っていないとほとんど役に立たないということは、自我復元の実践者なら皆理解していることと思う。

それと同じで、上記の「重心の意識」もトラウマ堀とAC人格の解除を行っていないとできない。やることは一緒だからだ。

雑多な刺激や情報(記憶や感情による刺激や情報も含む)があるなかで、意識を置く場所を意識的にコントロールするということだからである。

 

つまり、結論として、丹田のコントロール具合が自分の自我率の試金石になるんじゃないかな、と思った次第です。