※これは、無明庵が公認したやり方ではありません。ブログ作者である私が感じたものですので、自我復元をやっている方の妨げになる可能性がございますので、注意してお読み下さい。
私が、たまにやる技法がある。
無明庵に教えられたわけでもなく、何かの本を読んだわけでもなく、自然と「やらなければならないだろうな」と感じていたものである。
それは、「死を感じる練習」である。
子供の頃、あんなに感じていた「死」を、成長するに従って感じなくなっていた。
「精神的に成長した」「自分の死を受け入れる精神力がついた」
のだと思っていた。
確かに、その可能性もある。
しかしながら、別の可能性もあった。
単純に、「麻痺しただけ」ではないのかと。
人は必ず死ぬ。
世界を見つめている意識の中心は必ず消える。
絶対に消え、沈んで行き、無くなる。
むしろ、子供の頃より今の方が年齢を重ねた分、死に近いのだ。
それならば、死を感じていないのはおかしいのではないのか??
と、感じたために、定期的に「死」を真剣に思い出す。
それは、絶対的な事実だからだ。
「あの絵は綺麗」「この食べ物は美味しい」「今日は疲れたな」「身体が硬いな」「眠いよ」「あの子が好きだ」「犬がいる」「花が咲いている」「雨が降っている」
これらは、真実ではない。絶対ではないのだ。
感じ方や、条件、言葉の意味、感覚、記憶……いろいろなものですぐに変わり、一定ではない。
しかしながら、「死ぬ」ということに関しては必ず真実であり、「私が消える」ということに関しても必ず真実である。
従って、そこには他の事象とは明確に異なる絶対性があり、妄想が入る余地がないのだ。
死なない 消えない などという妄想はありえないのだ。
人の心の中に生きる だとか、
子孫を残せば大丈夫 だとか、
作品を残せば大丈夫 だとか、
やりたいことをやりきったら大丈夫 だとか、
後悔を産まなければ大丈夫 だとか、
みんな死ぬから大丈夫
ではないのだ。大丈夫ではない。
安心の死などない。
生きて、生きて、生きたくて、ある日突然に強制的にそれを奪われる。
それが死だ。
それを感じることが、唯一、全ての妄想を吹き飛ばし「事実」を感じる練習になるからだ。
自分が確実に死ぬ
という事実には、妄想が入り込む余地がなく、何も言い訳をする余地も無く、何も理由をつける余地がなく、何も反論できる余地がないのだ。
死は、麻痺させて無視するか受け入れるかの二択しかない。
死を認識することは、自分の意識がどれだけ事実を認識しているかの精度を確認することになる。
死を感じることができないのは、自分の意識が麻痺していることの証拠となる。
そのため、死を感じる練習が必要になる。
やることは簡単だ。
私はいる 必ず死ぬ
このことを意識の中心で強く感じようとするだけだ。
そこで、反論や記憶の渦や感覚の海の中に逃げ込もうとする意識を捕まえるのだ。
それが、「自分以外」によって引き起こされた「妄想」を認識する唯一の方法だからだ。