竹崎季長は文永の役の功が認められ、建治元年(1275)10月海頭4郡の地頭に任ぜられる。(現在の熊本県宇城市あたり)

建治2年(1276)3月、防衛のため鎮西諸国の守護・地頭・地侍などを動員して石築地の構築を始め、総延長は約20㎞に及び8月に完成した。(福岡市の香椎より、箱崎・博多・百道原・生の松原・今宿をへて今津大原)

生の松原地区:海側に石を積み上げ、後ろは土と砂を突き固めている。石積は高さ約2.5m前後、頂部の後ろは一段下がり通路状となり、後方はさらに南側に傾斜している。前面の石材は中央部付近から西側が巨晶花崗岩、東側が砂岩と使い分けている。

(大隅・日向・豊前・肥後・肥前・筑前・筑後・薩摩・豊後の国の守護・地頭・地侍たちが動員されたことがわかる)

元寇防塁博多古図(同様のことが書かれている)

 

弘安4年(1281)6月6日、再び東路軍兵4万人・軍船900艘、江南軍兵10万人・軍船3,500艘で来航した。

太宰小貳三郎左衛門尉景質(だざいしょうに さぶろうざえもんのじょう かげすけ)を総大将とし、約65,000人で撃退する。

  「うま具足におえ」と書かれているが、私には意味が分からない(馬に乗れる状態の甲冑の仕度を終え?)

石築地に陣取る武将たちと、合戦に赴く騎馬武者たち

兵船に乗り込んだ、薩摩国守護下野守久親(さつまのくに しゅご しもつけのかみ ひさちか)と弟の久長(ひさなが)の名前がある。

兵舟に乗り込んだ九州の武将たちの中に「筑前国御家人・秋月九郎」の名前がある。

鹿島に陣取る元軍

兵船に射かける元軍

元軍船に乗り込む大矢野種保兄弟3人。

元軍の武将の首を取る季長。

 

この合戦でも元軍に勝利したが、鎌倉幕府から参戦した御家人たちには恩賞は与えられなかった(本来であれば、「御恩と奉公」で結ばれているため「土地=一所懸命」が与えられるが、相手が外敵なためその土地が無い)

このため御家人たちは自分の領地を分割して子供・家人に与えた。

このような状態が鎌倉幕府滅亡の最大の原因と言っても過言ではあるまい。

 

 

参考文献   西尾市岩瀬文庫

 

 

鈴木純夫