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 宮古馬や与那国馬に見られる頭絡でウムグイと呼ばれ、馬の口にかますハミがなく、2本の棒に3ヶ所の穴をあけ、その棒が鼻の上から顎下に吊るされる形で紐がかけられ、手綱に結ばれる。1本手綱で馬を操る事が出来る。
 
 琉球王府は先に掲載したように、中国明王朝期や江戸幕府への献上品の一つに馬があり、御用馬の生産を宮古島の農民に命じ、王府から派遣された武士は馬に乗り宮古島を統治するとともに、産馬を奨励し堅守していた琉球産馬の中で、特に宮古馬は従順で馬力があることから官馬として歓迎された。
 名馬を生産奨励するため琉球王府は各地に競馬用の馬場を設けた。
 その当時の競馬は、先に上賀茂神社の「日本の古式競馬」で紹介したものとは違い、速足競馬(※側対歩については後日掲載)であった。
 馬場は幅約30m・長さ250mの直線コースで、琉球松が植えられ、高さ1m・幅5~10mの盛り土の観覧席があった。
 この時代、宮古馬は高く評価され人気があったことから、平成天皇陛下の生まれ年と同じ昭和8年(1933年)生まれの宮古馬三頭が昭和10年(1935年)宮内庁に買い上げられた。(※三頭については後日掲載)
 昭和初期までは役畜の主体は牛であったが、昭和6年(1931年)牛のピロプラズマ症が宮古島で蔓延し、牛の3割が死亡したのを境にその他の島々に先駆け、畜力の主体が牛から馬に移行した。
 馬に鋤を曳かせて畑を耕し、サトウキビの汁を搾るために圧搾用の鉄車を引かせたり、馬車を引かせて荷物を運び、背中に荷物を駄載し運ぶ馬などが本格的に役用として活用されるのに伴い、馬は力のある大型の馬が要求されるようになった。
 農用として用途が高まると、昭和15年(1940年)以降内地から多くの種牡馬が移入され、宮古馬に交配が重ねられ、数世代にわたり改良された馬は大型化し、体高は牝馬145㎝以上となった。
 宮古改良馬は飼い主に従順で馬力もあり、農用に適していた事から沖縄本島や石垣島などで人気があり高根で取引された。
 昭和20年~30年代にかけて馬は砂糖と共に島の重要な移出品となり、糖業が最も盛んだった昭和31年には12,000頭に達し、各農家には馬が2~3頭飼われていた。
 その後、農業の機械化に伴い馬耕は耕運機やトラクターに、馬車はトラックに、小型製糖工場は大型製糖工場に移行し馬の役割は急激に衰退した。
 しかし、かたくなに雑種化を阻み、小型の在来馬を細々としていた農家があり、昭和50年(1975年)で11頭飼養されていた。
 絶滅の危機という現状が明らかになると、「生きた文化財」である宮古馬保存の機運が一気に高まり昭和55年(1980年)4月には島内の当時6市町村によって「宮古馬保存会」が発足し、平成2年(1991年)1月に沖縄県指定天然記念物に指定された。
 平成17年(2008年)10月1日に町村合併し、保存会が宮古島市畜産課に移行した。
 平成25年(2013年)3月現在で38頭いるが、事業計画では先にも触れたように50頭を目指している。
 一般的に宮古馬は、頭が大きく・頸は太く・胴体は比較的細く・斜尻・蹄は固く・鬣は密・毛色は白徴が無く、鹿毛と栗毛が殆んどである。
 
 今回、荷川取牧場さんを訪ねトレッキングをさせて頂いた。牡・牝・騸を合わせ17頭飼養されており、牡で14才の大風(ウーカジ)に乗ったが、山梨県の紅葉台木曽馬牧場の馬に比べ、体高・体長・胸囲がかなり小さく、踵を下げると腹を抱えてしまう。
 軽やかに走るが、鎧・兜を着用しての古式馬上武芸が出来るとはとても思えない。
 
 イメージ 4大風(種牡馬)と荷川取牧場主の明弘氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 紅葉台木曽馬牧場の種牡馬・蘭丸
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 宮古馬と木曽馬の体高・体長・胸囲の平均値(牡馬)
宮古馬                           木曽馬
体高   121.2㎝                         131.7㎝
体長   131.4㎝                         143.8㎝
胸囲   140.4㎝                         165.8㎝
 
 
  引用            新日本の在来馬
                 宮古馬のルーツを探る
                 日本在来馬の歴史と現状
  協力            荷川取牧場代表・荷川取明弘氏
 
  ※前回掲載で、宮古島市と岡崎市が親善友好都市と書きましたが、石垣島市の間違いです。申し訳ありませんでした。
 
   鈴木純夫