大坂冬の陣
※大坂から大阪へ変更された事に関しては諸説あり(摂葉落穂集・角川日本地名大辞典27巻などから)
①文化5年(1808)狂言師 浜松歌国ー土に返るを忌み嫌らい、坂から阪にした。
②明治新政府元年により変更。
③明治10年代(1878)以降に一般的に変更された。

大坂城天守閣 淀殿と秀頼公


慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、同8年(1602)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いたが、大坂城には太閤秀吉の遺児豊臣秀頼が依然健然で徳川幕府に比肩し得る格別の権威を保持して君臨していた。
既に老境に達した家康が豊臣家とのこうした関係を一気に清算すべく引き起こしたのが大坂の陣。
まず冬の陣は秀頼が再興を進めていた京都・方広寺大仏殿の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」という語句が刻まれていることに対し、家康を呪詛し豊臣家の繁栄を願うものであると難癖をつけたことが直接のきっかけとなって始まった。
慶長19年(1614)10月1日に家康は諸大名に出陣を命じ、約20万の大軍が大坂城を囲んだ。対する豊臣方も長宗我部盛親・真田幸村(信繁)・後藤基次(又兵衛)ら多くの浪人衆を迎え入れ、その数約10万に膨れ上がり難攻不落の大坂城で籠城戦を決め込んだ。実際の戦闘は11月19日の木津川口・伝法川口の戦い、26日の鴫野・今福合戦、29日の博労ヶ淵の戦い、12月4日の真田出丸の攻防戦、17日の本町橋の夜討ちなどごくわずかに過ぎず、徳川軍は大坂城の惣構内に一歩も踏み込めないまま12月22日には両軍の間で講和が成立した。
右隻

左隻

真田出丸の攻防戦以降写真が入らないため③ー1に続けます。