
上図は博多の水城
精根尽き果てていた日本軍は、司令官小弐景質が殿を務め博多に築いた水城にひとまず退却した。水城は天智天皇時代の664年、当時の新羅の侵攻から防衛するために建造された高さ14m・根盤50m・長さ1㎞に及び城壁である。博多方面の被害は甚大であった。筥崎方面の防備は豊後の守護大友頼泰の軍勢で激戦が繰り広げられたが、筥崎八幡宮の焼失と退却により大衆の非難を浴びることとなり、翌年鎌倉幕府から訓戒の処置をとられる立場になった。

引用 蒙古襲来と北条氏の戦略
鈴木純夫
しかし、博多に上陸した連合軍は予想外の日本兵の勇敢さに驚くとともに、攻略できずに引き分ける形でそれぞれの陣に引き上げた。特に総司令官の伒都は、日本兵との戦に辟易し「前々から武勇の国とは聞いていたがこれほど強いとは思わなかった」と感嘆したという。その夜評定が開かれたが意見はまちまちであった。一人金方慶が「今この期を逃がしたならば再び日本を打ち破る事は困難になる」と言ったが、総司令官伒都もうなずきながら「しかしながら、もしここに長居すれば戦争はますます困難になるだろう。我が軍は矢種も食料尽きてきたので引くときは速やかに引くのが最善策ではないか」と述べた。戦に疲れた諸将は総司令官に同調し評定は決した。夕方頃から兵たちは、船で後続軍の待機する志賀島・能古島へと移動を始めた。
ところがその夜もふけた頃、海上では突然の突風と大波に襲われたという。それが今日一般に台風だと言われるがその確証は今もって分からない。
翌朝、連合軍の船は1艘も停泊しておらず、志賀島には元軍の1艘だけが停泊していた。しかし日本軍からは敵を恐れて近づく者はいなかった。やがて元軍の兵士たちが助命を求めてきたがそれに応じる者はなく、そうするうちに元軍の大将が生捕られるなら自殺をした方がまだしと思ったか、自ら海に身を投げてしまった。残る兵士たちは武装解除し降伏してきた。兵士の数は220名余りで、そのうち50人を大友頼泰が京に連行し、残った兵士は水城で悉く首をはねられた。
この戦いは結果的に対馬・壱岐の住民のみでなく、元・宋・高麗連合軍にも多くの犠牲者をだし決着した。
元・宋・高麗連合軍の船の残骸 船の碇

