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上図は、蒙古国牒状
「上天の看命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉す」に始まる尊大な国書は表面的には日蒙両国の平和的な通交を要求するものであったが、末尾にある「兵を用うるに至る。それいずくんぞ好むところならん」の一文字からも、日本側には蒙古国の侵攻必至と受け取られた。2月19日、朝廷は連日の会議の結果、幕府の意見をも入れて「返牒あるべからず」ーつまり無視するという結論に達した。結果7月まで大宰府にとどめ置かれた蒙古・高麗側の使者藩阜は要領を得ぬまま帰国した。藩阜にしてみれば何が何やら分からぬままに追い返されたわけであるが、日本側は突如出現した未知の大敵との戦いにすでに突入していたのである。
 国書到来時点で日本側がモンゴル帝国に対して全くの無知であつたと言うことはない。商船や渡来禅僧など多くのルートで海外情勢は伝えられていた。しかし東アジアの辺境の島国であり、数百年間、他国とので正式な国交を持たなかった当時の日本の支配層の対外認識の質や、持っている海外情報の量はやはりおぼつかないものであったと言わざるを得ない。外交の経験など皆無と言ってよい鎌倉幕府には「蒙古国書」の到来は強敵襲来の予兆としか認識されなかったであろう。
 文永3年(1266)から5度に渡って日本に朝貢を求める使者を派遣してきた。しかし度重なる招撫策が失敗であると蒙古軍が判断すると、ついに武力行使に踏み切った。文永10年(1275)正月、元(以後モンゴル国をさす)は高麗軍民総督洪茶丘に命じ日本遠征計画を実現させるべく、高麗の資源を駆り出させた。洪茶丘の高麗軍への要求は兵員約5000人、兵船300艘、技術者・運搬人3万人余りと食料などであった。特に元・高麗両軍の食料・馬など全て高麗から調達したため、高麗の農業・財政は逼迫して行った。
 当初高麗は日本と戦う気は無かった。したがってわざと困難な海路を使って兵を動かした。しかしすぐ元の通司曹介升に見破られ、日本に内通しているのではないかと疑われた。高麗ではそれを聞いて驚き、日本遠征の意志を固めたと言われる。
 8月に入ると元軍の先鋒隊も合浦(現在の馬山市)に到着し、兵船900艘が集まっていた。軍編成は三隊に分けられ、宋・元の連合軍約2万人、高麗軍1万5000人、水軍900艘から成り立っていた。高麗軍は三編成に分けられていた。
 10月3日、元・宋・高麗連合軍は出港した。そして、10月5日対馬を急襲する。                 
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 それより前、本隊の上陸に先駆けて、先鋒隊が対馬の国府八幡宮に火を放ったと伝えられている。それが午前4時頃であった。同じころ島の西側佐須浦小茂田浜に異国船が姿を現し始めていた。
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 島民が国府へ急報し、地頭宗助国が兵80余騎を従えて駆けつけた。
 当時の日本の戦いは「一対一」での戦いが基本であった。従って一定の「手続き」を踏み、名乗りを上げて始めて刀を交える。しかしこの戦法が通用しないことを日本軍は痛いほど知る事になる。
 宗助国は翌日、通訳を介して来島の理由を形式張って聞きにいかせた。それに対して元軍は使者を無視し、問答無用とばかりに一気に1000余名が上陸を開始し、たちまち戦闘状態に陥った。元軍の中には前年、対馬に使者と共に来て、宗一族に冷たくあしらわれた事を恨んでいた者もいたと思われる。それだけに容赦はなく、宗一族は地頭宗助国を初めとしてことごとく戦死したという。この戦いで島民も含め双方にかなりの犠牲者を出した。                                                                   
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 連合軍は対馬に1週間逗留した後今度は壱岐島を急襲した10月14日の事である。                
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  壱岐の守護平景盛は対馬の戦いの報を受けていたため、防備を固め敵船が現れると100余騎で海岸に駆けつけ、上陸してくる連合軍に矢継ぎ早に矢を射かけて防戦した。しかし連合軍は「てつほう(鉄砲)」と記録される武器を使用し上陸を強行した。翌日には島中が戦闘に巻き込まれ、平景盛も城に追い込まれ自害した。
 この対馬・壱岐の戦いで島民のほとんどが殺され・或いは女たちは手に穴をあけられ縄を通され船に結わえ付けられたという。元・宋・高麗連合軍の去った後の島は修羅場と化した。
 勢いに乗った連合軍は16日には肥前の平戸・鷹島に至り、住民を捕えるなど暴虐の果てに、19日から20日未明にかけて筑前の今津浜に上陸すると同時に、博多・箱崎・麁原に侵攻してきた。
 
  文永の役③に続けます。
 
  引用           モンゴルの襲来の衝撃
                蒙古襲来と北条氏の戦略
   
   鈴木純夫