鎌倉                                       8代執権北条時宗
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 元(モンゴル)の軍団が日本に攻め込んで来たのは、今から730年前のことであった。文永11年(1274-文永の役)と弘安4年(1281-弘安の役)の2回、延べ10数万人にものぼる大軍団が九州に上陸した。元軍の勢いは強く一時は九州北部の沿岸一帯が戦場と化した。
 伝説として語り継がれたあの「神風」なるものが吹かなければ、当時の元軍と日本の国力の差から言って戦局はどうなっていたか分からない。とにかくこの元寇以来、第二次世界大戦までは日本は直接に外国からの攻撃をほとんど受けていない。その事実が20世紀のはじめ、日本国家が膨張していくときに盛んに唱えられた。「絶対不可侵の神国神話」を生み出しのである。元軍はその「神国=日本」に攻め込んだ外敵として語り継がれて来た。
文永の役では博多湾が攻撃対象となった。                                         
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 元軍が博多周辺から上陸し、日本軍との間で激しい合戦が行われた。文永の役前後から博多周辺は異国警固の要地となった。文永の役後には石築地(元弘防塁)が博多湾沿岸に築かれ、また異国征伐の拠点ともなった。                                                                  
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 弘安の役でも元軍はやはり博多を攻めようとした。その一派である東路軍は志賀島から海の中道まで襲来し壱岐に退いている。二度にわたる元軍襲来の後も、三回目の襲来があると考えられており、博多周辺の警固は延々と九州の武士たちによって行われた。
 13世紀には鎌倉幕府の出先機関である鎮西探題が博多に設置され、新たな政治都市としての性格が付与された。11世紀後半以来、博多では日宋貿易が活発に行われた。1276年南宋が元に降伏すると、日宋貿易の延長としての日元貿易が展開する。日元貿易は日本国内の政治や社会経済の変化に従い、その形を変えていくが博多は中国側の慶元(現在の寧波)と並ぶ主要貿易港であった。
 鎮西奉行は小弐氏(本来は武藤氏と言ったが、太宰の小弐と言う官職を世襲したので、小弐氏と呼ばれた)であり鎌倉幕府が九州を治めるために置いた役職で、小弐質頼以来小弐氏が継承した。対馬守護・対馬地頭であり、倭寇を禁止したり捕えた倭寇たちを高麗国使の面前で成敗し、高麗との貿易を希望したように貿易に強い関心を抱いていた。対馬はその受け皿となっていたのである。                               
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 文永5年(1268)閏正月八日、大宰府より筑前守護小弐質能によって元の国書が鎌倉にもたらされた。国書は1ヶ月後の翌2月7日、幕府より朝廷に正式に奏上された。国書を奉じた使者潘阜(高麗人)は前年11月対馬に着し、守護代宗助国(守護は筑前と同じく小弐氏)に案内され、正月元旦大宰府に至った。小弐氏から幕府に届けられるまで1ヶ月余、幕府から朝廷へもやはり1ヶ月を要したことは、当時の交通事情にあっても緩慢であるがこれはむしろ事の重大さに動揺した小弐氏及び幕府が対処に苦慮したことを示すものであろう。