江戸時代~明治へ
 徳川時代の各藩は防衛・殖産・運輸上、独自の政策をとり各地に各様の馬が蕃殖された。
 南部馬・三春馬・信濃馬・三河馬・能登馬・土佐馬・日向馬・薩摩馬などがその例である。(雄略・推古・天武天皇期に甲斐の黒駒を紹介致しましたが、江戸期に入り甲州馬の記述がみあたりません。但し馬市はあった。)
 明治に時代が変わり、廃藩置県、その他の庶政一新は、それまで各藩ごとに行われたば馬政を一時頓挫させ、産馬事業は衰退をたどった。
 当時の日本馬つまり「和種」は体高四尺二~三寸(127~130㎝)が普通であり、四尺(121㎝)以下のものもあったが、乗馬としては四尺五寸(136㎝)以上は好まれなかった。
パリ万博に出陳(明治10年)                                                 
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 明治10年(1887)パリの万国博覧会に出陳された日本の代表馬二頭は四尺五寸(136㎝)であったが、世界
における未改良馬の標本として買い取られたものである。
 明治年間に入って、西欧文化の流入とともに産業上、特に軍事から馬の改良の急務が叫ばれるようになった。
 軍備をフランス式、ドイツ式によって整えることになったが、どうしても整備出来なかったのが軍馬であった。
 徳川三百年の世は太平に慣れ、馬の改良について世界の馬の様子も知ることなく漫然と過ごしたためである。(伊達正宗が支倉常長を遣欧させ、帰途の際ペルシャ馬を購入したこと、8代将軍吉宗がアラブ馬購入をした旨の記載あり)
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 馬の改良計画が馬政として組織的に問題となったのは、明治17年(1884)農商務省において畜産諮詢会が開かれたのが最初である。次いで明治26年(1893)に陸軍・農商務省が馬匹改良の方法を審議した。当時の調査によると、体高も速力においても日本の軍馬は列強に比較して極めて劣悪・輓曳力・負担力及び持久力に至っては所要能力を発揮することもできなく軍馬としての資格がないことが明らかになった。明治28、29年(1895、1896)の日清役は馬改良の必要性を、日露役(明治38年 1904)において日本軍馬の資質が低劣で、かのコサック騎兵に悩まされたことは永く語りぐさになった。(12月にNHK坂の上の雲で阿部寛演じる秋山好古中将率いる騎馬兵がコサック騎兵との戦いを、川島 舟 先生ー秋篠宮妃殿下 紀子様の弟ーが監修されました)
 写真が入らないため終焉:2に続けます。