【豊臣秀吉ガイドブックを攻略せよ!】 (秀吉と共に生きた人々コース)
秀吉の故郷・名古屋市中村区に西光寺というお寺があります。
ココには、秀吉の母・なか(大政所)の墓があると伝わっているそうな。
秀吉の母・『なか』は尾張御器所村(現・名古屋市昭和区御器所)の出身と伝わります。
現在の昭和区周辺は、信長の重臣・佐久間氏の拠点があったところ。
戦国時代でも伊勝城、川名北城、川名南城、御器所西城、御器所東城というお城がありました。
またこの御器所には、木地師(木工職人)の集団がいたとか。
なので『なか』は、木地師の娘だったのかもしれません。
また『なか』のエピソードとして、有名な次の話があります。
小牧・長久手合戦の後、秀吉が徳川家康に上洛を勧めますが、うまくいいきませんでした。
この時、秀吉は妹の朝日姫を正室として、『なか』を人質として岡崎城へ送りました。
その結果、家康は上洛に応じたため、大政所は約1ヶ月で大坂に戻ることができましたが…
この間、家康家臣・本多重次が『なか』の居所の周囲に柴を積み上げ、事ある際には火をつける準備をしていたんです。
後にこのことを母から聞かされた秀吉はさすがに不快感を表し、家康に対して
『重次のような無礼者は家臣の座から放逐せよ』と命令したとか。
ということで、重次は家康の関東移封の際に3千石もらいますが…
それと同時に上総国古井戸(現在の千葉県君津市)にて蟄居を命じられたます。
その後、蟄居先が下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に変更されたりで、
家康は一度臣従すると、秀吉の命には逆らえなかったようですね。
さて、『なか』の墓は山科本国寺の墓地に供養塔があるものの、ココにもお墓があったとは?
もしかすると供養塔かもしれません。
歴史上の人物は有名になるほど墓が増えるという法則がありますから。(;^_^A
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