人が怖い 回避性愛着障害 ~私の歩んできた道~ |  なんとかなるさ

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川の流れのように

静岡県東部(富士市)
リトリーブサイコセラピー
心理セラピスト
子間宮みかですピンク薔薇
 
 
子間宮みか
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今日は重い内容。


 25才頃の話。
人の心の美しさは
思いやりと関心を寄せることと思い、
家庭の中でさえ詐取するような
所もあるのに
殺伐とした世の中でどこにいけば
そのような人に会える?

人は宗教に向かうのは
そのような心を自分に取り戻したいから?
と、ほんの少し考えていました。

 ほどなくして
知り合いのキリスト教徒のおばさんが
私を連れていきたいの、
とミサに連れていってもらう機会が
訪れました。
グットタイミングなんですね。


でもその教会に来ている方々は
お世辞にも自分の心を向上させたい、
向き合いたい、というような
おばさん方ではなく、
人の粗を探し何人かの集まりで
悪口を言う・・・・

片付けの押し付けあい、
どっちが上か下か、

牧師さんの話に
為になるわね~と言いながら
なぜ自身の心にいかさないのか、
何の為に宗教をやっているんだろう?

と、その教会の殺伐とした雰囲気に
思いました。
(他は知らずそこだけの話)



そしてその数年前の話も思い出しました。
当時、お寺に座禅を組に行っていたのですが、
そこに参加したおばさんから
生け花教室をお寺でやっていて
参加しているから一緒にどう?

とお誘いを受け、
見学だけしに行きました。

仏様の前でも
殺伐とした雰囲気。
先生に好かれようと人を落として
気に入られようとするイヤらしさ、


うーむ、
宗教をやっているとか
人の心の在り方とは関係ない人も
多いんだ、
と結論。
 
IMG_20160717_112610345.jpg
その頃、色んな世界を
見させられました。
空の上の存在をとても近くに
感じていた頃です。

危ない世界に触れながらも
ギリギリのところで
落ちないように手綱を引いてもらって
いたような感じでした。


その頃、勤めていた喫茶店。
そこのマスターとの出会い。
 
人生に諦め
でも父親の承認を乾くほど望み
薬物に溺れながら(後に知った)

893の仲間から薬を酒に混ぜられ
からかわれているのに
仲間だと信じている。

いつまでも人の愛を待っている
自分を壊しながら
自分の人生を狂わせ傷つきながらも
父親の承認、母親の条件抜きの関心を
待っている。
そんな姿に自分を重ねました。
そして助けたいと思いました。

この時代が私には
とても辛くて見たくない世界を見、
残酷で悲しくて張り裂けそうな、
でも、苦しみを生きている真実、
そして生きていて本当に大切なものは何か?
を感じながら生きていた時でした。

薬物はダメだ。
そう片付けるだけでは
見えてこない人の悲しみがある。
愛に傷ついた心がある。
そうでもしなければ生きれない
人の心がある。

責めたり
偏見な目で見たり
排除し、
普通の生活圏内には
存在しないような別物として
汚いもの扱いすることも出来る。
 
その人の傍にいたのは
あまりにも孤独で
誰にも本当に愛されていない、
その気持ちを唯一分かり合える
恐ろしいまでの底なしの孤独を抱えていたから。
そして分かり合える気持ちを通じて
私を救いたかったから。


でも
親の愛を餓鬼のように乾きながら
待っていた心は埋めることは出来なかった。


深い深い心の闇。
神様はなぜそれを見せるの?
私と出会い薬に依存しないと誓った彼。
でも見えない存在のだれかが
私の手を薬のある戸棚に導いた。
 
ボロボロになってそこから
去った。



神様が私に見せたいもの・・・・

その次は
主人との結婚に至るまで。
「本当の愛とは?」
を知りたくて聞きまくり

絶望の末に
「心を大事にしていきる」を
選んだ後に今の主人と出会い、
それでも人が信じられなかった時に
(結婚しても幸せになれるのか)

夜デートの後に雨の降っている空に向かい
「この人が運命の人ですか?
もしそうなら雨を止ましてください」

もう神頼みで返事などあるはずがない空に
委ねるしかない程の
人や運命を信じられない心境でした。

すると、ザーザー降っていた雨が
ピタッと止み、
信じられずに
「本当だったら、雨を降らせてください」

そうするとまたザーと降りだす雨。
困惑して信じることが出来ず
「本当に本当だったら、
また止ましてください」

そうすると雨がピタッと止む。

これをあと二往復ほど繰り返し
信じるしかないと降参し
「もういい」と泣いて家に入りました。


何に対して降参したのか。。。
自然霊を信じることなのか
自分の人生になのか、
人との交流を信じて大丈夫とのことなのか
人を信じて裏切られないと
いうことなのか・・・


闇の世界を見た後に
次は人や神様を信じる世界の入口に。

とてもじゃないけど
心が追い付かない。

神の世界への羨望とこの世の生活、
どこに意識を置けば良いのか
 
叔父さん二人の自死や
恩人のおばさまのお亡くなりになったことを
知らせが来る前にあの世からのお知らせで
知らされなぜ私に?と被害者意識にもなった。

幼少期からの境遇、
小学校でのパワハラ先生からの虐め
それを見て見ぬふりをする大人や周り、
高校で空虚感が振り切れ無気力でそれに
罵倒する親や先生。

生きることに倒れそうになっている人が
「助けて」を言っても
怠けと甘えとしか捉えられずに
踏みつけられながら生き、

起死回生と頑張って良い結果を出すと
結果に満足しそれを親自分の
ご満悦としか見ず虚しさだけが
増えていく。

そんな子供時代の思いが
大人になって
なかったことにはならない。


けれど
あったこととして認め、
心に吐き溜められた感情や
悲しみや苦しみを
分かろうとしてくれる人がいる。
そして自分の中で整理がつく。

その上で
人を信じたいか
繋がりたいかどうか。

一昨日のSV勉強会で
カズ姐さんに言われた言葉。

厳しい厳しい愛の言葉。



2017年に入って
人生の総さらいをしているような感じが
しています。


抱えきれない消化出来ない経験の中、
やっとの思いで生きてきました。


 
人生の悩みの大半は
人間関係、
人とのコミュニケーションと聞きます。
 
だから人と分かり合えることは
悩みの反対で幸せを感じるのでしょう。
 
「人と繋がる」
苦しい経験をたくさんしてきて
回避を繰り返して自分を守っている人は
簡単な事ではないと私も理解しています。

それでもあきらめずに
一歩一歩進みたい。
 
死にたいほど苦しい、
その出発点は「幸せになりたい」だから。
 
苦しみはここから出たい心のお知らせ。
そういう衝動が人には備わっているように
思うのです。
 

家系の連鎖
ビリーフ
認知の歪み
解放され自由になれば
なるほど

自分がどうしたいか?
人を信じ、繋がりたいか、
が浮き彫りになってきます。


それが地に足をつける
自分軸を持つ
自分の足で歩く
ということに繋がるのだと思います。


まだまだ練る段階の私。
でも諦めずにこの人生を
出会いに感謝しながら
まだ分からない今までの不思議な出来事も
いつか点と点が結ばれる、
そう思い歩んで行きたいと思います。



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