
さてさて、次女のことから
色んな事を考える機会を得ています。
学校に行きたがらない次女。
ではどう結果が出たら
この「問題」は収束したに
なるのかな?
次女が学校に通う事が普通に出来たら
ゴールなのかな?
私の思春期時代。
過食症になり
毎朝学校に心も体も限界で行けず
それでも無理矢理
部屋の扉を開けようとする母親。
開けられたら
ただでさえ、地獄な日々なのに
人に神経をすり減らし
惨めさを味わう一日を過ごさなくては
ならないことになるので
部屋の扉を意地でも開けさせないように
した毎日。
苦しくて苦しくて
親の望む世間体をクリアーする
良い子を強いられ
精神が保てなく
ワケわからなくなった私は
家族の中に居場所がなかった。
(いや、幼少期から居場所はなかった。)
きっと親が考える
学校に行く事がゴールみたいな
感覚、その親の言いなりを
受け入れていたら
今 生きていないかもしれない選択を
していたかもしれない。
その当時、私はどう思っていたかな
をもう一度ふりかえっている。
そして今の私が
その当時の私に声をかけるとしたら
「それでいいんだよ、
辛い時は辛いと泣いていいんだよ
寂しかったね」
と抱き締めてあげたい。
たぶん
私は今もだけど(^^;
自然とか宇宙とか神様とか切り離して
人間の世界(物質世界?)だけで
生きていなかったのかも。
その感覚は発達障害と
呼ばれるものかもしれない。
次女を見てても
やりたくない事をやりたくないんじゃー!
とワガママとひとくくりにできない
この世に合わせられない個性が
あるのかもしれない
最近長女から時折次女に
「学校に行ってないくせに」
という言葉が出てきた。
「あなたは世間一般に馴染むことが
出きるけれど、(次女は)出来ない何かを
もっているのよ」
と伝えると
そうなんだ、と理解してくれた。
この理解が
そのままを受け入れる優しさであり
次女は家族の中に居場所が
ちゃんとあるということに
つながるんだ、
と学校行っている行ってない
関係なしに対等にガハガハ笑うし
喧嘩もするし、
そんな子供達や旦那や私
「家族」を見ていると
不恰好ながらも案外幸せなんだな~
なんて思ったりした。
生まれてきたのに
生まれてきてごめんなさい
なんて、たった30㎝弱の足の置き場も
私はいてはいけないんです
みたいにこの世の中に
この人生に思っている人がいるんです。
ついこないだのカズ姐さんのオープンセッションを受けるまでワタクシ、
解離してこの世から離れたところに魂 行ってました(;^ω^A
私の叔父達も自ら命を断ちました。
「居てもいいんだよ!
私はここにいる
と叫んでいいんだよ!」
魂になった叔父達に
そう思ってほしいです。
生まれてきてよかった存在なんだよ
そして生きている
私達も子供達も
今は
一人一人が心の居場所があること
それを目指そう。

わたしの居場所にゃ