秀でたマンガやアニメでは、ときに突き刺さるような言葉に出会います。
王都でスバルが大きな失態を見せ、どん底の気分に向かっているときに、エミリアはスバルに王都で療養するように依願し、自分が滞在するロズワール辺境伯領に戻ろうとしました。
その時、スバルはしつこく、自分も一緒に帰ると言ってきかないのです。エミリアのためなのだと言い張って。
その要求を拒否されると、スバルは悪態をつき、「お前のためなんだ」とエミリアをどなるのです。
その時エミリアは言います。
自分のためでしょ?
その後、スバルは事実上の別れを告げられるのですが、
自分のためでしょ?
これは己が身にも突き刺さる言葉でした。自分の言動にも当てはまるにではないか?
日常生活万般でこういうことはあると思われます。特に恋愛には往々にしてこういうことがあるのではないでしょうか。
その人のためだと言って、実は自分の満足や体裁のためであったり。
また、僕自身、東日本大震災復興応援音楽イベントを主催したりしましたが、本当に被災地のためなのでしょうか?自己満足の影はなかったのか?
人知れず復興に今も協力し続けている人も少なからずいます。その人たちと比してどうなのか?
もちろん、人の行動原理は、暴力や社会的強制によるものは別として、最終的には自己の命を充足させるためであると言えなくはありません。
目的論からみれば、崇高な活動も最終的には、それによってその人自身の命を充足させるためという解釈も可能です。
しかしながら、自己の充足を超えた、「人のため」という度合いが極めて強い行動や活動もあると思いますし、実際にそう思う行動や活動に出会い、頭が下がるときがあります。わたくしがほとんどない人って本当にいますよ。人の幸をひたすら願っているのです。真似できません。
スバルはエミリアのことを大切に思っているのは確かでしょう。しかし、自己満足に陥りやすく、エミリアを理解しようとする努力に欠けている感がありました。
別れを通告されてどん底に落ちたスバルは、その後、試練を経て、レムの協力もあって、再び立ち上がるのですが、人を理解する大切さが分かる男子になっていくのです。多くの人が喜べる行動を丹念に模索するのです。
「自分のためでしょ」という問いに、僕なりの答えがあるとしたら、
自分の生の充足につながることを願っている以上自分のためだとは否定しない
しかし、自分のためであり他人のためである行動を自分は可能な中で最も取りたい
自己の小さい殻を超えることを志したい
ということかと思います。
これは難しいことだと思いますが、心構えは持っていたいです。
「Re:ゼロから始める異世界生活」が僕に改めてこんな気持ちを持たせてくれました。
リゼロは娯楽も気づきももたらしてくれる深いコンテンツですよ(^-^)