逢坂冬馬「同志少女、敵を撃て」は、第二次世界大戦のドイツ・ソ連戦を舞台にして、母親を殺された少女がスナイパーとして戦争に身を投じていく話であった。

 

ハードカバー版477ページの大作だったけど、割とスラスラとすぐに読める。脳が拒絶するような長いカタカナが続く外国人の名前も、キャラクターの個性が非常にわかりやすく味付けされているためすぐ覚えられた。あとは時折挟まれる時代背景の説明とか、地名とかが、世界史をちゃんと勉強しとけば良かったなと少し後悔したくらいで挫折するところは無し。

 

主人公セラフィマの悲惨すぎる境遇(家族を失う)からの、狙撃手育成学校での生活(仲間との出会い・成長)、実戦での戸惑い(仲間死亡)…と序盤は怒涛に流れて行く。このあたりは、内容は全然違うけれども、展開の傾向としては「進撃の巨人」でエレンが調査兵団に入って最初の戦いに参加するあたりまでの、あの雰囲気と同じような感じはした。

 

とにかく戦争描写が悲惨で、主要キャラのうち最も才能があり、天才肌だったアヤが、初戦でいきなり爆散して死亡してしまうのは強烈だった。死に方の表現もグロいし、作品通じてとにかく人があまりにも簡単に大量に死ぬ。世の中の作品には「死亡フラグ」というのがあるが、「名前つきで作中に登場した」というだけでフラグ達成してるように感じてしまったは本作が初めてだ。

 

第3章のスターリングラード戦は特に面白かったところで、アパートの一室に立てこもる数人の兵士の戦線に参加して、劣勢だったところを盛り返していく場面はアツかった。主人公は人をガンガン撃って行き、感覚が高揚しすぎて途中笑いだしたり、ゲームをやっているかのように倒したスコアを誇るなど、これが戦争の精神状態のリアルなんだろうな、と思わされた。

 

ソ連視点でも、ドイツ視点でも相手のことを「こんなことをするなんて、人間の所業ではない」と絶望する描写がある。また、同じく「戦争が無かったら本当はこんなことがしたかった」と語らうシーンもある。思えばセラフィマは、本来外交官を目指していて、ドイツとの友好のかけはしになろうとしていたんだしな。読んでいて本当に戦争はあってほしくないなあ、と率直に思った。

 

終盤になるともはやセラフィマは無敵感が凄く、超人的に敵を殺していくのでちょっと現実離れ臭がするのと、さすがに当時のあの時代背景・情勢でジェンダー論を語ってどうも作者の主張が見えてしまうなど、多少は「おや?」と思うところはあるにはあった。でも総じて話には勢いがあって最後までしっかり読み切ることができました。

 

ある場面で上司のイリーナが「なんで私にはああいう部下がいないんだろうな」と皮肉まじりに呟いたところに、セラフィマがすぐさま「人望が無いからじゃないですか」と返したシーンは笑った。

秋田市の職員が、仕事終わりに5時間飲んで、帰りに自転車に乗っていたところを飲酒運転で検挙された、というニュースを見かけた。市の聞き取りによると「疲れていて早く帰りたかった」とのことで、この職員は減給6か月の処分になった、と。

この事件のこととか処分の内容については、今の時代、たとえ自転車であっても厳しく罰せられるのねというのをよく理解して、自分も気を付けたいなという戒めの気持ちを持ったところ。

ところで、このニュースのコメント欄では、「なぜ疲れているのに飲みに行ったのか」という趣旨のことを書いているかたが結構多かったを見かけた(コメント39件中、7件くらいでそう書かれていた)。自分は捉えかたがそれとは違っていたので、自分の解釈が間違っているのかな?とやや混乱している。

というのも、自分は記事を読んで「5時間飲んだから、疲れた」のだろうと解釈したため。

記事には「いつ疲れた」のかの記載はないから、ヤフコメのとおり「最初から疲れていてその後5時間飲んだ」のか、「5時間も飲み続けたこともあって結果疲れた」のか、本当のところがわからない。どっちの解釈であっても不祥事の結果が同じだけど、読み手によって言葉の意味合いが変わるとは、日本語って本当に難しいなと思った。

この記事を機会に、ほかにも、読み手によって解釈が2つできて、しかも意味合いまで変わってしまう表現ってあるのかなと思い、ジェミニに例をあげてもらったところ、「辛いカレーとラーメン」だと。これだと、辛いのはカレーだけだという捉え方と、カレーもラーメンもどっちも辛いという捉え方ができる。

このほか「泣きながら逃げる泥棒を追いかけた」というのは、自分が泣いているのか。はたまた泥棒のほうが泣いているのか。また「彼は彼女より犬が好きだ」というのは、彼女のことよりも犬のほうが好きなのか、あるいは犬の好き度合いが彼女を上回っているのか。あぁ、頭がグシャグシャになる。

やはり読み手としては、前後の文脈とか、行間とか、書き手の言いたいことなどを総合的に考えて、意味を判断しなければならないなと思った。まさか、瞬間的に単語の字づらだけに反応して、勝手に正解だと思い込んだあげく頓珍漢なSNSへの書き込みとか、リアクションなんかしないように気を付けたい。

いずれにしても、「変な誤解をして意見している人を冷ややかに笑う自分になりたくないものである。」

先日、晩ご飯のため仕事終わりに一人でつけ麺店「しゅはり」へ行った。近くにある割に本当に久しぶりに食べたが、空腹過ぎたこともあってそれはもう、メチャクチャ美味しかった。

20代の頃は「つけ麺なんて、ラーメンの汁と麺を分けたものでしょ」くらいの認識しかなかった(実際そんな感じの品もあった)が、今ではもう、自分の中では全く別な料理という感じ。よく食べに行く「の郎」で、つけ麺クチになっている最中で「つけ麺準備中」だと心底がっかりし、妥協してラーメンを選択するという場面がある。

今回は特に書くことが思いつかないので「つけ麺」という言葉でひらめいたことを書くこととするが、やっぱり、つけ麺最大の特徴といえば、食べてる最中にどんどんスープが冷えていくところだろうなと思う。最初の熱すぎて器を持つのすら辛い状態から、冷え冷えになるまでのスピードの早さよ。

この「冷え」はつけ麺の弱点なのかな、と思わなくもないが、つけ麺ファンたる自分は「冷えていくことこそつけ麺の魅力だ」と語るのである。ただしまあ、仮に一切冷めないつけ麺がこの世に存在するとしたら、自分は普通に冷めないほうを選ぶだろうから、やせ我慢してる感じは否めない。

また、つけ麺はなんでなのか、麺が大盛になりがちという特徴もあるような気がする。私は先日44歳になったものの、「食欲」というパラメータだけは20代と遜色がないのでとにかく、美味しいものをお腹いっぱい食べたい。そういう人からしたら大盛になりがちのつけ麺は存在がありがたい。

ラーメンと比較すれば、つけ麺はラーメンよりは「ライス」が合わないのではないか、という説もあるものの、それも薬味で調整するとか玉ねぎ投入するなどの所作によって自分は完全に克服した。

お店の側からしたら…。つけ麺はまず器の数がラーメンよりも多くなるので、どちらかというと多分作るのは嫌なのかもしれない。また、コスパ・タイパで考えたら「まぜそば」のほうが、お店的には効率がいいらしいという話も聞いたことがある。つくづく麺の世界は本当に奥深いなあ、と思うところ。

今回「しゅはり」で食べたところ、久しぶり過ぎて金額が1,000円から1,400円に大幅アップしていて、そういう意味からも自分は驚いたとともに、今後のつけ麺の立場はどうなっていくのだろうか、と満腹、満足状態の帰路で思いにふけったのだった。

毎週日曜日は朝5時前からマラソン練習するというのが習慣になっているが、いよいよ日が昇る時間が遅くなってきて、今日はスタート時外が真っ暗だった。また気温も低くて(11℃)、先週までの半袖・短パンというスタイルではもう厳しいかもなと考え、上下長袖のジャージ・スタイルで走ることとした。

 

最初は快調だったものの、結局は3キロ地点でもう暑くて暑くて。風がジャージにぶつかってなかなか前に進めず、汗が張り付いて不快だった。今にして思えば「下は長ズボン・上はTシャツ」で良かったのかもしれない。マラソン練習においては、走っている最中に服を脱ぐわけにもいかないから、この辺の「季節取り」判断が本当に難しいんだよな。

 

今日もクタクタになりながら14キロを走って帰宅し、シャワーを浴びたところで、9歳息子がのそのそ起きてくる。自分は入れ違いで2度寝し、本日の家族イベントである、合浦公園で開催される青森秋まつりに備えた。

 

秋まつりは、春のさくらまつりと比べると小規模ではあったけれども巨大シャボン玉とか、木登り体験とか、小動物の触れ合いコーナーとか小さい子どもにとっては楽しいものが沢山ある。うちの9歳と13歳は、鉄板の「棒パン」をやったのち、無料のバルーンアートコーナーで風船を貰い、露店を楽しむという、割としっとりとした楽しみ方をしていた。

 

露店で、「ホットドック」という看板を掲げているアメリカンドック屋さんがあり、1本250円とあまりに破格だったので2本購入して娘と食べた。アメリカンドックはもはや何十年ぶりかに食べた気がするのだが、中身が魚肉ソーセージで「あれ、そうだったっけ」と自分の大昔の記憶がバグる。普通のお肉のウインナーではなかったか。そしてだから250円なのか、とも腑に落ちた。

 

朝のマラソン練習開始時とは一転して、気温25度と、青森において10月に入った気温とは思えない暑さ!9歳はかき氷のブルーハワイを食べてて、その光景を見ていると朝と昼とで秋と夏を同時に体験しているような錯覚に陥ってしまう。自分も数口分けてもらったところひんやりしてウマい。さつまいも揚げと合っててグッドだった。

 

青森の場合これから一気に、冬に突入していく。なんてことはないいつもの一日だったが、冬の厳しさに向かう前の、最後の素朴なおまつりを体験できて良かったように思う。

Amebaのスタッフブログによる「Amebaブログが22周年を迎えた」という内容の記事を読んで、自分はこれがもしかしてカエル化現象というやつなのかと思った(ちょっと今回は割と、というか結構、悪態をつくのですみません)。


自分のブログ歴は2005年からで、主に「gooブログ」でお世話になってきた。令和7年サービスが終了するということで、一旦そこでのブログを終えて「ムラゴン」で改めてお世話になるも、利用している方々の世代や話題が違い過ぎるなと思って、一年でここ「Ameba」へ引っ越してきた。

Amebaブログは、自分が好きなお笑いの話を書いている方や、参考になる読書感想を書いている方が沢山いる。ブログやってて、別に他の方の投稿にコメント書いたり積極的にイイネを集めたりとかそういうことをするわけではないが、たまに同じテーマで書いている人を見かけて嬉しくなったり、大勢の仲間がいる良い場所だなと認識してきた。

ただ、Ambaブログの運営にはかなり、疑問な点があって、CMがあまりにも鬱陶しいのだ。

閲覧数が極めて低空飛行の自分のブログに、ありがたいことにイイネを付けてくれた方がいれば、その方のブログへ行きイイネを返して、且つ投稿も何個か読んでみたいと思うのは当然の人情。しかし、そのイイネをつけた方のブログに転移しただけで、運営は有無を言わさずいきなりCMをブチこんでくる。
 

30秒?1分?を耐えてなんとかCMを終わらせ、まずは礼儀のイイネ返戻をしてから、さあ、このかたの投稿を読ませてもらおうと1つ2つ…とクリックしていくと、しばらくしたらまたCMだ。自分から検索して、他のかたのブログ記事を読みに行っても、開くとほぼ同時に問答無用でCMを投げつけられる。こうして他ブログを読みたい欲が急速に減退していく。


自分は「あぁこの時代だし、CMがないと仕方ないことなんだよな」と思う一方で、正直「この運営は、もしかしてブログ記事を読ませる気がないのではないか」という思いが日々段々と強くなってきている。ブログを読むためにはCMの嵐に耐えねばならないとは、gooブログでもムラゴンでもあり得なかったことだ。

そこに来て、今回のスタッフブログ22周年の記事には、「書き手にとって、読み手にとって、本当に良いことかを繰り返し問いながら進めてきた一年」「Amebaにおける「書くこと」と「読むこと」の体験を、改めて見つめ直しています。」とか「変わらず大切にしてきたのは、「誰かの日常や言葉が、誰かの支えになる」ということ」「この価値観は、これからも変わることはありません。」などと書いている。

 

この文を見て率直に「嘘つけぃ」と思ってしまったため、自分はちょっとこれから、CMのない新たな引っ越し先を探してみることとした。

この間の9月23日にいよいよ44歳になった。

 

これまでならば年齢を重ねても、20代の頃との違いは「感性」以外はさほど変わらないなとか思っていたが、さすがにそうも言っていられなくなってきて、自分が老いてきていることをはっきり自覚させられるような毎日だ。

 

自分における体内の各種パラメータについて、20代の自分を全て「10」とすると…「疲労の取れやすさ」は「5」。「目のかすみにくさ」は「7」。「酒の酔いにくさ」は「6」と言ったところ。「感性」に至っては多分「2」以下…。音楽の素晴らしさを受け止めるだけの、自分の感受性アンテナはもはやボロボロで、一曲歌を覚えるのに、次の曲が出るまでの時間がかかる。

 

20代の自分と張り合える「10」がそのまま残っているのは「食欲」だ(さすがに10代の頃の爆発的な食欲「15」には勝てないが)。二郎系インスパイア店「の郎」で麺300グラムの大盛なら苦も無く食べられる。昨日も、9歳息子と13歳娘と3人で町の食堂で昼ご飯を食べたが、自分の分はもちろんのこと、子ども二人が食べきれなかったものは自分が全部平らげた。

 

だが、それに対応すべきパラメータ「代謝」が「5」と激烈に悪くなってきているので、食べすぎたら後処理が大変だ。速やかに脂肪になってしまうので、週2回マラソン練習で外を走ってなんとかトントンにしているようなもの。またお酒もほぼ毎日のように飲んでいたところを2日に1回と制限を設けて自分なりに節制を続けている。

 

では、逆に20代の時に勝てるパラメータは何かないのか…。もしかしたら「根気」は「10.3」くらいにはなっているかもしれない。これは、仕事面においていろいろ(と言ってもトップ層の人たちと比べたら大したことはないが)苦しい思いをしてきて、それを乗り越えてきたから、それがうまく働いているのではないか。同じ理屈で「責任感」なども「10.5」くらいにはアップしているはずだ。

 

完全に今年から始めたばかりの初心者ではあるが、「読書力」なんていうのもさすがに勝てるだろう。なんせ20代の時には読書なんてほぼしていなかったのだから。20代が「10」であるなら今はそれはもう…「50」くらい頂いてもいいかもしれない。

 

今後もどんどん加齢していき、各種パラメータは落ちて行くものの、こういった分野で20代を凌駕していって、最終的・総合的な「人間力」を「10」以上にして死ねたらというのが、自分の目下の目標になるだろうか。

湊かなえ「Nのために」は、展開早いし荒いゆえに考察が捗りまくりの超面白本だった。

高層マンションで起きたとある殺人事件について、関係者4人の証言がしっかり辻褄が合っており、解決されたように見えるのだが、しかしその裏には4人それぞれが隠していた別の思惑があった。という内容だ。

読む前は、全員が「一人のN」のために何かをするという話なのかと思ったが、全然そんなことはなかった。そもそも、各登場人物はみなイニシャル「N」であり、各Nたちがそれぞれ違ったNのために行動していたので、それはもうとんでもなく複雑で、取っ散らかった事件になっていたのだった。

互いに言えない内面があって、その心の声に従って行動したことが最終的な悲劇に繋がる。心の声というのは、作品のテーマである「純粋な愛」だったのかもしれない。異性に対しての、友達に対しての、仲間に対しての愛。いろんな形の愛が見て取れて、これは読み手側の感受性が問われているなと感じた。

こんな複雑そうな内容なのに、小説自体はハードカバー版では230ページそこそこで終わってしまう。分量としてはかなり短くて、全部を説明しているわけではないから、最終的には読者の判断任せなのか?わからない点が何個もできてしまった。

~以下ネタバレありますので注意ください~

まず主人公格の杉下希美にとっての「N」が誰だったのか、よくわからない。合っているかどうかわからないけど、自分の解釈では「成瀬、安藤、西崎」の3人全員が、杉下にとってのNなのではないかと思う(なんなら管理人さんの野原さんも入りそう)。全Nのために行動し過ぎて、最後大ポカしてしまうのがあまりに痛かった。

次に謎過ぎたのが、安藤がなぜ外からチェーンロックをかけてしまったのか。杉下が安藤の将来を守るために、犯行の計画を一切知らせなかったことで、安藤はなぜか自分だけが仲間からの疎外感を受けたというのは、気持ちはわかるが、それがなぜチェーンロック施錠という行動になるのか。

他にも成瀬の実家に放火した犯人や杉下の母親のその後、西崎の10年後など、説明されない部分がかなり残っている。これは湊かなえ流の引き算の美学というやつなのだろうか。案の定、考察したい欲がバキバキ刺激される。

ネットで考察しているサイトの方が、本作を評して「自己中心的?いや、N中心的というべきか?」と書いていた。本作をたった一言で表す、素晴らしい表現だなと思った。

うちの小学3年生(9歳)がキッズフリマに挑戦した。

キッズフリマは大型ショッピングモール「シーナシーナ」のイベントスペースで開催された。店長になれるのは小学生限定で、家にある不要なものに上限500円までの値段をつけて、その場で来場者(これもまた子ども)に売ってしまうという、社会学習を兼ねたフリーマーケットだ。

うちには、遊ばなくなってしまった古いトミカとか、プラレール、銃のおもちゃなどが散乱していたので、チラシを見た妻がこれはいい機会なのではと参加を決めて申し込んだもの。参加OKの通知が来たことでやる気スイッチが入り、妻と息子で日々、コツコツ値札作りなどを頑張っていた。

当日会場に到着すると、自分らのほか18組の子ども店長がいて場に品を並べていた。支給される店長エプロンがかわいい。我々もいざ、ということで品を広げてみると、値札の文字がボールペン一筆書きだとなかなかちゃんと見えないとか、種々不具合はあったが一見ちゃんと店っぽく見える。

一方おそらく何度も参加しているのであろう、手慣れた一家の場合はヴィレヴァン並の綺麗なポップ値札を作ってたり、品をちゃんとビニールで包装したり、ミニテーブルをうまく使って高さを出していたりなど完成度が高い。あと、全体的にぬいぐるみの出品率が高い。

やはりというかそういう年頃なのだろうか、どちらかというと女子のほうが多かったので、息子の場合はこれが逆に強みで、男子向けのトミカとかプラレール、銃の商品は他にライバルがいなかった。そのため、おもちゃが実に飛ぶように売れて傍から見ていた自分は本当に驚いた。まじで一品も売れないかも、とか思っていたのが嘘みたい。

なお…自分がエリア外からマーケット内を除いていたところ、スラムダンクが表紙の古い週刊少年ジャンプが売られていたので大変興味がそそられた。自分が息子に声をかけて値段を見てもらったところ「500円」とは。定価より高いとますます興味が惹かれてしまう(買わなかったけど)。

フリマ開催中は、親は一切口出しも手伝いもできない。ハラハラしながら1時間を過ごしたところ、最終的には3,000円弱も売り上げて、息子はうれしそうで大変良かった。後程現金を確認したら70円ほど合わなかったのだがそれもご愛敬か(お客も店長も全員子どもだしな)。最後10分でセールを仕掛けていたからそれが原因かもしれない。

息子は店長でありながら他店で買い物もしたので、利益は2,500円ほどだった。収支計算表も記入して、彼なりに「売る」「買う」「残った金がもうけとなる」というのを学べたのではないだろうか。今、家に現役のおもちゃであるポケモンのぬいぐるみが沢山残っているので、来年以降また参加するかもしれない。

自分にだけ当てはまるのかもしれない、「読書」という趣味を続けることの難しさ・しんどさについて。

自分は、今年から「読書」という趣味を初めて半年が経過した超初心者である(9月16日現時点で、46冊を読んだ)。図書館で2週間に一度、本を借りては読み返すというのを繰り返し、今のところ、手に取るほとんどの本で驚きと感動が得られているから、まだまだこの趣味は続けていられそうなところ。

ただ、これがいつまで続くかなあとは、若干思い始めている。なんせ、本を読むという行為は自分にとって、結構エネルギーを要することだなと自覚してしまったので。

「告白」とか「六人の嘘つきな大学生」のような、自分にとって爆発的に面白い小説だとタイムワープしたように現実世界の意識がなくなり、没頭して一気に読み終えてしまうのだが、普通の作品だとすぐに疲れてしまい、ちょっとずつ読んでは閉じて、また時間を空けて、みたいなことになる。次に本開くためには意識のどこかで「どっこいしょ」と言っている感じがする。

特に平日はきつい。仕事終わりに、家に帰って来てご飯を食べたら強烈に眠くなってしまって、なかなか本を読む気が沸かない。朝に早起きして30分、あとは夜に意識がなくなるまでの30分くらい。これだとちょっとずつ読み進めることしかできない。

一方でyoutubeはあまりに気軽すぎ・求心力ありすぎだと思う。なんの心的負荷もかけずに0秒で開けるし、時間も無限に溶けていく。最悪部屋が暗くても自らが光っているから、始めるにあたって何の心的障壁がない。「よしこれから読むぞ」という気合と覚悟が必要な読書と比べると、その気軽さが悪魔的過ぎる。

読書は筋トレに似ているところがあると思う。こちら側から本を迎えに行って、意識を集中し脳を動かさなければならないから疲れるわけだな。世の中の読書家はこういう感覚、意識は無いかもしれないのでもしかしたら自分は読書には向いていないのかもしれない。

とはいえ、短い読書体験期間の中で強烈な記憶に残っている本にも出会えている。図書館の返却期間を利用した「早く読まなきゃ」というエネルギーも利用しつつ、今後も自分のペースで読み続けていきたい。
 

この間の日曜日、妻と子どもたちが東京に小旅行に行ったので、非常に珍しくも自分たった1人の1日を過ごした。

自分しかいないとなれば、誰にも迷惑をかけることもないので積極的に、好き勝手・ハチャメチャに過ごしたいと考えるのは当然のことだと思います。夕方くらいにいざ!と立ち上がり近所の総菜屋さんでからあげと卵焼き、焼き鳥とともに、普段は2日に1回だけ、3本までしか飲まない酒を4本買ってきた。

そして、テレビがある和室にそれらを持っていき、衣装ケースにお盆と品を乗せ、これで簡易テーブルの完成じゃいと息巻いて、午後4時に一人宴会をスタートさせた。うちは、飲食は決まったスペース(テーブル)で取るからこんな行動は普段なら絶対にしないが、なんせ今日はハチャメチャに過ごすと決めたのでOKなのだ。

撮り貯めたバラエティ番組を次々と流しながら、調子よくお酒を飲んでいると大変美味しい。いつもなら息子にブン取られるから揚げも独り占め出来て、とことんマイペースだ。とにかく何かに気を使う的な、アンテナを張る必要がなくて楽。日々何かと忙しい大人たちには、こういった何もかも気にしなくていい時間がたまには必要なのではないだろうか。

ただ優雅な時間は長続きせず、お酒が3本目になった頃にはすっかり酔いが回ってきてしまった。ハチャメチャな一日を過ごすと言っても、飲める量がハチャメチャに増えるというわけではない。息子の持っているデカいぬいぐるみをクッション代わりに、床に肩ヒジつきながらチビチビモードに切り替えたが、結局は眠気は止められなかった。

気が付けばそのまま3時間。ぬいぐるみは無意識に「まくら」として使用されており、布団もかけずにそのまま眠っていた。季節が季節なら風邪を引いていてもおかしくないし、食べ物の空き容器や空き缶が散乱している。ハチャメチャっていうか、酒飲んで気を失って誰にも起こされないまま過ごすという、シンプルにだらしない中年男性の姿そのものという形になってしまった。

起床後はその場を綺麗に片付け、何事も無かったこととして家族の帰宅を迎えた。息子から「なんかぬいぐるみがペシャンコになっている気がする」という報告を受けたがそこはスルーだ。まさかこんなところにハチャメチャの爪痕が残っているとは思わなかったのである。