望んで障害者として生まれたのではない‼️ | 統合失調症mikanの「差別される側の論理」

統合失調症mikanの「差別される側の論理」

mikan個人のブログにしましたが、精神障害の話が中々書けなくてすみません。どうしても政治のほうが興味があり、ついつい政治的な話題になってしまいます。FBFには、「障害者が政治を語る」ところが、私のブログの売りだと言われました。

先日のブログ「僕はキチガイじゃない‼️」にKさんから、またコメントを頂いたので、そのコメントと私の返信を転載します。

Kさんも仰る通り、私たち障害者は望んで障害者として生まれてきた訳ではありません。たまたま、障害を持って生まれたんです。

障害者として生まれた事は本人に責任はありません。私は精神障害なので先天的な障害とは言えないかもしれませんが、物心ついた時には鬱がありました。脳性麻痺では子どもの時に高熱が続き、熱は下がりましたが麻痺が残った、という人もいます。私も0才の時、肺炎で高熱が続き、その影響かもしれません。


以下転載。
Kさん 「完全参加と平等」についてはよく分かりませんが、少なくとも私達障害者やマイノリティーの方々と健常者が何が平等になるのかは分かりませんが、あり得ないと思います。なぜなら、スタートラインから既に不平等だからです。

私は先天性の障害者です。なぜ、障害を持って生まれたのか?本当に悩みました。人生のスタートラインから不平等との闘い、葛藤です。一番の問題は制度的な平等ではなく、根本は同じ人間として平等な生存権を有することだと思います。

日本はそれすらも認められていません。なぜなら、津久井やまゆり園事件が象徴的ですね。植松死刑囚や石原慎太郎が重度障害者を生きるに値しない、安楽死させるべきという認識を公然と示したからです。そして、多くの人々が迎合しました。私はゾッとしました。

障害者は障害者として生まれたかった訳がありません。偶々、障害者に運悪く生まれてしまったのです。私達障害者本人に責任は全くありません。

なのに、植松を始めとして多くの人々が健常者にとって、邪魔で不都合な存在として、重度障害者を抹殺しようとしたのです。そこには、同じ人間としての生存権を認めようとするスタンスは全く感じられません。飽くまでも、健常者目線での好不都合という考え方しかないのです。

日本は先ず、この根本的な考え方を変革することから始めなければなりません。制度的な表面的なことを多少変えた所で、障害者自身の目線にたった視点を健常者が持たない限り、日本は変わらないと思います。


私 そうなんです、スタートラインが違います。それで、合理的配慮を求めると「障害者の特権意識」とか言って、健常者からバッシングされるんです。

石原氏の発言を批判したら「本当の事を言っただけでしょ」と非難され、私が障害者の人権を主張すると、「あなたのように特権を欲しがる人が少数いるせいで、障害者皆んながそうだと思われて迷惑」というコメントをもらいました。(その彼女も障害者です)。

「健常者にやってもらってできる事でしょう?」とも言われましたが、障害者だけがやってもらうだけでなく、障害者が健常者にやってあげる事もあると思います。

彼女のように健常者のお情けにすがって生きるのはごめんです。私は権利を主張します。


Kさん 確かに仰るような障害者の方も多いのも事実ですね。難聴者の場合もその程度や家庭環境、教育等によって様々です。

私はこう考えます。
この世の全ての人間は誰一人として完璧な人間はいません。誰でも必ずどこか弱い所を持っています。だから、本来は障害者という区別はあり得ないはずです。

私達障害者は偶々弱い所が強く出ただけのことなのです。視力が弱い人は眼鏡をかけます。しかし、眼鏡をかけただけでは障害者と呼びませんね。同様に耳が弱い人は補聴器をかけます。なのになぜ補聴器をかけると、殆んどが障害者と呼ばれるのですか?

私達人間は誰でも多かれ少なかれ、どこかに相対的に弱い所を持っているのです。このように考えて行けば、もっと様々な多様な考えを受け入れる事ができるはずなのですが、どうしても区別したがりますね。

そのボーダーラインが健常者の中で、共に生活して行く上で支障があるかどうかですね。

支障や害がある人を障害者と区別して、健常者が暮らしやすい社会が理想的な社会だという訳ですね。

なぜ、とりわけ日本は極端な差別社会になったのでしょうか?
私は子どもの頃から、その事を知りたいと本を読んだりして知識を吸収してきました。私なりに出した1つの原因は聖徳太子の時代から既にあった「和」の精神です。
以上転載しました。


日本では、「和」の精神があったためになぜ差別社会になったのか、については、後日掲載したいと思います。