先日、このブログ内で「優生思想の実態」を投稿した。反応はそれぞれあったのだが、中にはどうも優生思想を勘違いしたまま
受け取り自分の中で蓄積させ、自分の中で劣等感を持つ方や逆にエリート意識を持つ方など障害者の目線からのコメントがあり、
私自身「これはマズい…」と思い警鐘を鳴らす意味で、「シリーズ 優生思想を暴く①」を書き綴ろうと思ったきっかけである。
人は無意識の思考の中で、それまで積み重ねたものがバックボーンとしてそれぞれ考える。それは「言論の自由」が保障されて証されている日本の中では当たり前の事であるが、「優生思想」を語るとき、その当たり前が人の成長段階の中で得てして歪められた考えに
なったり、作られた考え方の中で自分自身の劣等感、または意識過剰の中で「エリート障害者」を持つ場合がある。
このブログを書く大前提として人は何を考えようが自由だが、必要以上の劣等感を持ったり、自分の虚栄心の中で、人を陥れたり
見下したりする事は私の中では恥ずかしいと考えている。
先日投稿した「優生思想の実態」を読んで貰えれば解って頂けると思うのだが、「優生思想」とはつまるところ「自分自身と他者を
を比較して差別」する事」である。その事が下地にあり優生学の中で、障害者差別だったり、民族差別だったり、肌の色が違うと
いう事だったり発展する。
例えば、健全者(健常者)と言われている人間が圧倒的多数派な世の中では、障害者に対して差別があるが、逆に言うと障害者
が圧倒的多数派になってしまうと、この差別構造が逆転するかもしれない。バカなことを言っているかもしれないが、考えてほしい。
現在、飛躍的進歩を進めている医療社会の中で「発達障害児・者」が作られていっているではないか!
今、世界では新型コロナ禍であるが、近年昔と比べて病気の種類の数段上がり、病気などで引き起こる障害も増えていっている。
また交通事故を主とした障害者になるケースも珍しくはない。ここで一貫して言いたいのは、「障害」を持つことは悪い意味ではない。
むしろ障害者であることによってしか味わえない事もあるといっていいと断言したい。
一般社会とか普通の価値基準で決められた優生思想のモノサシで決めつけられてはものではない。良く障害者等に対して「可哀
想」「お気の毒」という言葉を投げかけられるが、これは健全者(健常者)での立場からの上から目線での言葉ではないのか?
そして、そのモノサシによって自分に自信を失い持たなくてもよかった劣等感を持つ障害者が多い。生まれて他者と比べられ、
常に同情と憐みの存在として育った環境が劣等感を育てていると確信する。私も昔そうであった。いつもいつも他者との比較をする
ことに慣れすぎて、「ありがとう」「ごめんなさい」という言葉だけを連呼していた。無論他者に迷惑話かけることが生きていく前提で
の話として。
私と似たような境遇の経験を持った障害者が多いが、稀に違う感覚を持つ障害者がいる。いわゆる「エリート障害者」だ。自分を
「エリート障害者」と語る障害者は何をもってエリート障害者といっているのか?社会の価値観で劣等感を持たれすぎて、それを
バネにエリート障害者と思う障害者もいれば、自身の周りに評価されてエリート障害者と自負している障害者もいる。もちろんそれ
自分自身の中で思って何かの向上心に向かっていくのは別にして、やみくもにエリート障害者と公言する障害者は、私から言え
ば「お山の大将」にしか過ぎないと思ってしまう。
障害者側がどう思うと社会的には、障害者である。優生思想の標的なのである。
ひねくれた優生思想の考え方を持つ障害者もエリート障害者も、もっと優生思想というものに過敏に真剣に考えて貰いたいものだ。
その実態は障害者差別の助長の加担者になっていることを!