優生思想の実態 | 統合失調症mikanの「差別される側の論理」

統合失調症mikanの「差別される側の論理」

mikan個人のブログにしましたが、精神障害の話が中々書けなくてすみません。どうしても政治のほうが興味があり、ついつい政治的な話題になってしまいます。FBFには、「障害者が政治を語る」ところが、私のブログの売りだと言われました。

我が団体で取り上げた大西氏の発言をYouTubeで見た。大西氏の持論の展開として「今の人口の比率が悪く、高齢者には早く死んでもらいたい。これは『命の選別』と言う人もいるが『命の選別』をしないとだめなのだ」とカメラの前で語っていた。

 

大西氏が何者か?という事はさておいて、この発言は立派な優生思想と言って良いが、これまで歴史上語られてきた優生思想とは、レベルが異なる代物で見過ごすことは出来ない危険な考え方として、優生思想の持つ危険性を書きたい。

 

まず優生思想とは何だろう?と素朴な疑問を持たれる方に説明すると、現母体保護法の前身である優生保護法(法律の基盤になったのが1940年に成立した国民優生法である)という法律が我が国にあったことが一点。その法律(優生保護法)の第1条第1項には「不良な子孫の出生征防止」が明記されている事が一点。現法である母体保護法では、「不良な子孫の出生征防止」という条文が廃止され(粘り強い障害者差別解放運動の成果ともいえるのだが…)、現法に至っている過程があるのだが、これはまさしく障害者差別の根本とも言えよう。

 

何故、我々障害者側が差別の根本と言っているのか?と言うと、比率的に圧倒的な少数派である障害者に対して、健全者(健常者と同意語)社会の中で「生産性のない厄介者」または「社会的なお荷物」とされて来た、またはされている一方的な偏見や差別がそこには根付いているからである。これは古くから言えることだが、生産性がある健全者のエゴイズムであり横暴とも言えよう。

 

この生産性がある健全者のエゴイズムは世界的な歴史を見ても18世紀にヨーロッパやアメリカなどで拡まった「優生学」が原点である。

「優生学」がもたらした悲惨で残忍な事件が、世界の歴史にしても、日本の歴史でも度々負の遺産として顔を覗かせている。

 

ナチス・ドイツのヒットラーは障害者をガス室で大量殺戮に味を占めて、ユダヤ人を大量殺戮したことは歴史にも証明されている。白人アメリカ人が黒人を奴隷にしていったことも、ヒットラーの考え方と根本は似ているのではないか。

 

我が国・日本でもつい4年前に起きた相模原障害者施設津久井やまゆり園での悪夢が記憶に新しいが、ハンセン病隔離政策や国が音頭を挙げて各都道府県がそれぞれ競うように目標を掲げた障害者等に対する強制不妊・断種手術があり、現在全国7地裁で係争中であることも忘れてはならない。戦時中、障害者がいる家庭に「足手まとい」との理由で青酸カリを配ったのも当時の国である。

 

「優生学」に基づいた「優生思想」は、絶対的多数派の都合の良い論理であり、人間社会が創り出す誰しもが、その優劣を決めようとする無意の本能だと考える。もちろん私にも優生思想的な一面はある。よく政治家や教育者たちが「いじめや差別がなくなる世の中に」と言っているが、人間社会においていじめや差別はなくならないと私は考える。そんなことは絵に描いた餅であり、言っている人物の自己満足にしかならないからである。

 

では、どうしていけばよいのか?私の場合、自身の持つ優生思想を認めた上で行動を起こす。そうしたら他者と比較して判断する意識にストップがかかりやすい。ストップがかかりやすいというのは意識しているからこそである。こういう意識の仕方こそ、私はあるゆる人種・高齢者・障害者などあらゆる差別をされている人たちの差別解放だと思うからなのだ。昨今取り上げられているLGBTの彼ら彼女たちについても同様な見解である。

 

優生思想について危険な意識を気に掛ける考え方(思想とも言ってもよい)を一人でも多くの人に伝え繋げていくのが、優性思想に危険を感じた人たち(多くはその当事者ではあるが…)が語らなければならない命題かもしれない。