福沢諭吉の「脱亜論」はご尤もなことです。

https://ameblo.jp/campanera/entry-10124656085.html

上記URLより転載、加工あり

 

 
最初のハングル新聞を創刊した日本人達

知られざる日本の功績

ハングル新聞を創刊せよ

諺文と呼ばれるハングル文字は、1446年、朝鮮の世宗が作成したといわれている。(訓民正音)

現在「諺文」
(オンムン)という言葉は蔑称とされ、ハングル文字と通常呼ぶが、このハングルという呼ばれ方は、1913年頃に初めて登場し、1927年には「ハングル=大いなる文字」という言葉が定着したようだ。

15世紀に登場したハングルであるが、その後単発的に詩歌・文学作品で使用されてはいたが、「文字」としての体系は整っておらず、国民一般には普及しなかった。

この「ハングル文字」にいち早く目を付けたのが、日本人なら誰でも知っている「福沢諭吉」である。福沢は「教育の普及が近代化の第一歩である」という信念から、朝鮮においても啓蒙を担う文字の重要性を説いていた。

そこで、日本の仮名と似ているハングルに注目し、一般国民にも文字を読むことが可能になるハングルの利用を強く勧めることになった。

福沢はこうも言っている

「朝鮮の独立と朝鮮民族の啓蒙には、朝鮮語による新聞の発行が不可欠である」

彼のこの言葉に大いに理解を示したのは、誰あろう安重根に暗殺された伊藤博文だった。

福沢諭吉の門下生に一人の男がいた。その名を「井上角五郎」という。実業家・政治家という面だけが表に出ているが、「井上がいなかったらハングルは無かった」とまでいわれた人物である。

彼は、朝鮮王朝政府時代、優秀な韓国人官吏とともに1883年に一定の体系と継続性を持った朝鮮初の近代新聞「朝鮮旬報」、そしてその続刊ともいえる「朝鮮週報」に大きく係ったということは、日朝文化史の上からも非常に興味深い。

朝鮮初の近代新聞「朝鮮旬報」は全文漢字でありハングルは使われなかった。
何故なら当時の大韓帝国では、ハングル使用には非常に抵抗があり、認められなかったという経緯があった。

その後クーデターなどのトラブルに巻き込まれ、志半ばにして井上は一度朝鮮を離れることになる。しかし、彼が蒔いてきた種は確実に育っており、韓国人官吏、学者らが、文法的にハングルをまとめていたのだった。

そして後年、井上にまた訪朝のチャンスが訪れ、日本で作成したハングル「活字」を携えて海を渡った。

1886年、漢字とハングルを使用した「朝鮮周報」が発刊されることとなった。部数は3000部と少なく、結局新聞自体は庶民に浸透しなかったが、彼が目指した「教育の普及が近代化の一歩である」という意思は、その後、朝鮮語字典、そして朝鮮総督府による義務教育の普及へと繋がっていくのである。

韓国でいう「日帝時代」が終わり、暫くして韓国は「漢江の奇跡」を成し遂げ世界を驚かせた。

その主役である「朴正煕大統領」は、後年「中曽根氏=後の総理大臣」との会談で次のように話したという。

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私は、貧農の生まれで、学校に通うなど思いもよらなかったが、日本人の役人が両親を説得して小学校に行くことができた。そしたら学校の教師が、お前は頭が良いから、無料の師範学校へ行ったほうが良いと推薦してくれた。

師範学校では、更に優秀さを認めてくれて、陸軍士官学校に推薦してくれた。
その結果、士官学校主席として答辞を読むことが出来、陸軍将校になることが出来た。今の私が有るのは、清廉で誠実な日本人のおかげである。


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富士川きよし・井上角五郎、歴史の表舞台には出てこない人物であるが、その清廉さと誠実さは、日本人として誇りに思うべきである。
http://archive.mag2.com/0000013290/20080627000000000.html
>朝鮮初の近代新聞「朝鮮旬報」は全文漢字でありハングルは使われなかった。
この一文は重要。

福沢諭吉、井上角五郎、伊藤博文の三氏がいなければ会秩序にどっぷり遣っていた朝鮮半島にハングルが復活することはありませんでした。
1000年以上、中華の属国であった朝鮮は中華文化の後継者であって、それ以外の何者でもありませんでした。
そもそも、李氏朝鮮は明の文化を継承する目的で建国され、国号も与えられた国です。
そのため、世宗がハングルを発明した当時は、明の文化を否定するものだとレッテルは貼られすこぶる評判が悪い者でした。結局、殆ど使われることもなく、ハングルはひっそりと姿を消していきました。
そして、朝鮮初の近代新聞「朝鮮旬報」も当然ハングルではなく漢字でした。
つまり、日本が併合するまでの朝鮮人には朝鮮人としてのアイデンティティはなく、国家や独自の文化を発展させようという気概も覇気もありませんでした。
しかし、一方で当時の日本は朝鮮半島をロシアの南下を防ぐ緩衝地帯にするために、朝鮮人のアイデンティティを確立し、独立国家としての自覚をもたせる必要がありました。
つまり、日本は朝鮮人に朝鮮人としての自覚を促して、自力で列強の侵略を食い止めてもらいたかったのです。
日本がハングルを奪ったというのは半島人の全くのでたらめだということです。

日帝支配下の朝鮮語のレコード
https://youtu.be/CbRQNGTjRs8


1931年の京城(ソウル)の映像
https://youtu.be/j5GegF6XcgE



朝鮮半島では北も南も日本は朝鮮の文化をことごとく抹殺し、朝鮮の象徴である白衣もハングルも奪ったと教えているようですが、全くの大嘘です。
むしろ、日本は朝鮮人としてのアイデンティティを確立するために積極的に文化遺産を保護し、文化・風俗を継承できるように務めたのです。
はっきり言えば、現在韓国朝鮮人が捏造した歴史で反日教育をしているのは日本人に対する裏切りです。
結果論ですが、半島には関わってはいけなかったのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~転載終わり。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%A7%92%E4%BA%94%E9%83%8Eウィキペディアより
 


井上角五郎

井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日1860年11月30日) - 昭和13年(1938年9月23日)は、日本の実業家政治家東京府平民[1]

壬午事変後に朝鮮政府の顧問となり、朝鮮初の近代新聞漢城旬報」を発刊[2][3]。また初めて漢文ハングル混合文体を実用化した漢城周報」を創刊[2][3]甲申政変に深く関与し、金玉均朴泳孝と関係を持った[3]。第1回の帝国議会衆議院議員に当選以来連続当選14回、第47回まで14回代議士を務める。北海道炭礦鉄道社長、日本製鋼所設立者、会長[4][5]国民工業学院理事長、慶應義塾評議員等を歴任し、大正9年(1920年緑綬褒章下賜。京釜鉄道南満州鉄道の設立にも関わった。閔妃の実甥・閔泳翊から贈られた琢園

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https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1282291797

一部転載

 

「ハングル」と言う名前は日本統治時代1912年に出来たもの(周時経による?)であって、それまでは蔑称の諺文(オンムン)と呼ばれていました。
1927年にハングル社による雑誌「ハングル」ができて、その名が広がりました。
朝鮮総督府は諺文と呼んでいました。