http://blog.livedoor.jp/champ1414/archives/3030053.html 転載加工あり。

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4-4-2 盗むな、偽証するな、奪い取るな

  盗むな、偽証するな、奪い取るな
 
『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ一九章)

「みだらな行ない、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ七章)

『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。(マルコ十章)

 考えてみるとどれもあたりまえのことである。イエスは、「隣人を愛しなさい」とは言われたが、「隣人から盗みなさい」とは言われなかった。
ところが、郷路征記によると、統一教会信者の心理は次のようなものらしい。

「統一協会員は、ウソをつくことに平気になる。

善と悪の判断基準について特異な考え方を信じるようになっているからである。同じ内容の行為でも動機が問題であるという。統一協会ではこの考え方をビデオ・センターのときから一貫して教育しつづける。
 
動機が天のためであればたとえ殺人でも善の行為である。呉服店で親に金を出させるのは天のためであるから、完全に正しい行為なのである。そのためにウソをつくこともまったく問題ではなくなる。善悪の判断基準は動機にあり、天のためであれば社会的に悪とされる行為も善であるという考え方はきわめて危険である。天のためとさえ言いさえすれば、どのような悪事でもさせることができるからである。実際に、統一協会員がさまざまな悪事を行なうことができるのは、善悪の判断基準が転換され、アベルからそれが正しいことであると指示されるからである。」(『統一協会マインドコントロールのすべて』二二四ページ)

「統一協会で会員がさせられることは、詐欺的な物売りと組織の拡大である。統一協会の『教育課程』の目的は、この二つのことにすべてを捧げる人間を作り出すことである。この二つは、統一協会のすべての活動を支える基礎である。だから、統一協会での生活は肉体的には苦しみの連続であるばかりか、精神的にも苦痛がやむことがない。気分の落ち込みと高揚のくり返しなのだが、しだいに落ち込みが深くなる。日常の活動それ自体が罪と恐怖の源泉であるという構造の結果。罪の意識と恐怖ははがれ落ちることがないからである。それは日々荷重されていく。罪は自分の行為にかんして生まれるだけではない。連帯罪という罪があるから、自分の所属している集団の失敗は自分の罪なのである。その集団は論理的には全人類という規模まで広がりうる。
 そのような精神的苦悩と肉体的苦痛が増幅して、ついに活動の限界をこえるときがくる。もう体が動かなくなるのである。摂理のために活動しなければならないという時に体が動かないことは、それ自体が神にたいする罪なのだ。
 そのような状態に陥った統一協会員は自分を責める。死んでしまいたいと思う。教義上自殺は禁止されている。死ぬこともできずに、祈祷室で自分の肉体が消滅することをひたすら願望するのである。そのような危機が通常三年目に訪れるので、『三年目の危機』と言われている。
 その危機ののち、統一協会員は自己の弱さや統一協会の規範に反する行為をすることをさまざまに合理化するようになる。そうでなければ生きていけないことを体が学ぶからである。神もサタンも見ているのに、『えい、いいや』とあえてその罪を犯すのである。まじめに考えると恐ろしいことであるからまじめに考えるのを放棄する。そのような行為を積み重ねていくので、幹部になればなるほど堕落していく。
 
統一協会の組織は建前が支配するところである。本音で話し合うことはない。表向きはつねに教義にしたがい、なんの矛盾もないように生きている。したがって、自分の悩みを隠し外面をとりつくろうことになる。さらなる堕落が追加されることになるのである。
 合理化する方法で規範を�乗り越える�ことができないまじめな人たちはノイローゼに陥るか、心身症になるであろう。
 だから、統一協会は人間の魂を救済する組織ではとうていなく、一部の幹部の経済的利益や政治的野望のために人間を破壊するところなのである。(『統一協会マインドコントロールのすべて』二四九?二五一ページ)


 統一教会では「幹部になればなるほど堕落していく」とのことである。
 他の宗教団体に潜入している統一教会信者や、政治家秘書になっている信者であれば、一種の二重スパイであるから、堅固な信念を持っている者でなければ勤まらないであろう。
 また、幹部になり、人をだまして献金を強いるのであるから、良心は麻痺していく。言行の乖離は著しい。
 口では、「家庭は大切」と言っておきながら、自らの家庭はぼろぼろで、文鮮明をまねたのか、二〇歳も年下の娘と結婚したりする。他人から大金を搾取しておきながら、本人は毎晩飲んでいたりする。

 イエスは次のようにも言っているのだが・・・。

「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりは、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」(ルカ一七章)

  親孝行

『隣人を自分のように愛しなさい』(マルコ一二章)

「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない」(ヨハネ五章)

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ一五章)

 親孝行は、東洋だけでなく、イエスも語っている普遍的な倫理である。
 統一教会で「家族を大切に」と言っても、あくまでも、文鮮明を中心とした疑似家族のことである。
 イエスが言う親とは、『真の父母』などというわけのわからない存在ではなく、肉身の親のことである。
 論語でも説く通り、『孝』は、古今東西普遍の徳目である。 

 昔、世界日報の購読の勧誘に来た女性がいた。色々話して、
「親孝行していますか?」と聞いたところ、彼女は「そうですねえ」と言ってじっと考え込んでいた。

 統一教会そのものも、疑似家族である。
 人にほめられることの少なかった女性が統一教会に触れ、接するのは『賛美のシャワー』である。彼女は徹底的にほめられる。家族でほめられたことの少ない彼女は感激する。
人類救済のための目標が与えられ、その中で仲間と一緒に努力する。その中で、疑似的な家族を体験する。
文鮮明・韓鶴子と信者の関係は擬似的な親と子の関係であるし、
教会の中では、カインとアベルつまり、擬似的な兄弟姉妹の関係である。

 スティーヴン・ハッサンは、カルトの愛について次のように記す。
 「カルトの愛は、もし本人がリーダーの命令と違う自分自身の決断をするならその愛をひっこめてしまうとおどし、その人をいつまでもだれかに頼る未成年状態にしておく」(『マインド・コントロールの恐怖』二二二ページ)
 もしも、家族の愛よりカルト宗教の擬似的な愛に惹かれるようであれば、カルト宗教にいつまでもい続けることになろう。

  家族の絆

 ハッサンによれば、カルト宗教からの脱却には、何よりも、家族の絆が大切であるという。
ハッサンは次のように記している。
「まず私は、家族と会うこと、家族のふるい分けをすること、家族に準備をさせること ー この三つが決定的に大切だということを学んだ。もし家族が介入を成功させるため時間と精力とお金を使う気がないなら、私は引き受けるべきではないのだ。第二に、もし家族が自分たちの問題を見つめ、自分たちも変わり成長しようとする気がないなら、それはカルトメンバーの進歩も妨げてしまう。」(『マインド・コントロールの恐怖』二三七ページ)
 その上で、
「マインド・コントロールのカルトにどんなに深入りしたメンバーでも、心の深い深いところでは脱出したいと願っているのだという信頼を持つ」
(『マインド・コントロールの恐怖』二二二ページ)ことが必要と述べてある。

「まず、学べるだけ学ぶことから始める。よい準備こそ成功への鍵である。問題の『敵』(特定のカルトグループ)を研究し、またそれと似ている破壊的カルトも研究する。彼らの考え方、行動の仕方を学ぶ。マインド・コントロールについての知識を得る。はっきり理解すればするほど、ほかの人に対しても ー とくにその時が来たとき本人に対して ー たやすく説明できるようにする。
 ファイルを整理しておき、重要な記事はコピーを作って、関係者がだれでも利用できるようにする。本人へ書いた手紙と、本人から来た手紙は、すべてコピーを作っておく」(『マインド・コントロールの恐怖』二五六ページ)

有田芳生も、
「統一教会問題は、基本的に家族問題である。救出・脱会は、家族の手によってしかなしえない。カウンセラーが説得の場に立ち会うことはあっても、その役割はあくまで協力にすぎないのである。」(「『神の国』の崩壊」二三七ページ)
と記す。

 飯干晃一は、娘・景子が統一教会に関わっていると知り、統一教会との闘いを決意する。飯干がまずしたのが、統一教会に対して徹底的に勉強することであった。
有田の「『神の国』の崩壊」の中に飯干晃一の手記が紹介されている。


「彼女が家を出てからというもの、私は統一協会に関する文献や資料を集め、読み通してきた。統一協会を批判しているものだけでなく、統一協会側の文献も、出版・公開されているものはもとより、内部資料まで読破していた。聖書を座右に置き、時には徹夜で読み込んだこともある。」(二四〇ページ)

 山崎浩子が、統一教会から脱会する時のことも彼女は次のように記している。

「その夜。
早々と布団にもぐりこんでいた私のところへ、姉が近寄って来た。
『ヒロさん、大事な話だから、ちゃんと起きて』
緊張した声だった。私は布団の上に膝をかかえて座りこむ。
『ヒロさん、私はやっぱり、統一教会から抜けてもらいたい。あんたは何もしていないかもしれないけど、こんなに社会悪を起こしている団体の広告塔になっているのが許せないのよ。私が牧師さんとつながっているのは知っているよね』
私は、バスタオルを頭からかぶったまま、ウンとうなずく。
「牧師さんの話を聞くか、今まで通り私たちだけで話をするか、どっちかに決めて。私はいつまででもいいんだよ。一生でもあんたにつき合う覚悟なんだから。ここの暮らしは快適だし、ごはんもおいしいし、ねえ」
 私は、快適だという言葉が気に入らず、皮肉っぽく言った。
『よかったんじゃない。今まで九カ月間苦しんできたんだから・・・・』
 その時だった。
 姉の顔色がサッと変わった。
 今まで気丈にふるまっていた姉が、涙を流し、声をふるわせながら怒鳴った。
『何が九カ月間苦しんで来ただア!あんたに何がわかる!私は毎日夢を見てきたんだよ。毎日、あんたを説得している夢を見つづけてきたんだ。ごはんをつくっている時も何している時でも、一時もあんたのことが頭から離れなかったんだ。九カ月間毎日だよ。あんたはそれだけ神様のことを思ってきたのか!』
返す言葉がなかった。
『あっちこっち行って、お願いします。ヒロコを助けてくださいって言っても、誰も引き受けてくれなかったんだ。お姉さん、それは無理ですって。両親がいないのに、どうやって説得できますかって。これは家族の愛情でしか救えないって。
 親たちがどんなに必死になって牧師さんにお願いしているか、あんたにはわからないでしょう!一晩考えて決めなさい!』
 かわいい自分の子供たちを家に残して、私のために必死で説得する姉。仕事まで辞めて、このことに関わっている叔父と叔母。
 その真剣さにウソはなかった。」(『愛が偽りに終わるとき』一八六?一八八ページ)

 「カルト宗教に惹かれる人は、教祖に父を求める人が多い」と言う人もいる。
肉身の親を尊敬できないから、教祖を父とみて、肉身の父に親孝行しない代わりに、教祖に忠誠を誓うとのことである。
 
  宗教を金儲けに使うことについて

「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(ルカ一八章)

「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
そしてこう言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ二一章)

 イエスが、今の世におられ、統一教会が「神の名」で、人を偽り、金を搾取していることを知ったならば、神殿で行なったことと同じことをするのではないだろうか?

  神の国はどこにあるか

 「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。」(マタイ二三章)

「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ一七章)

 原理講論に曰く
「しかるに神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本原因を解決されるために、一人のお方を遣わし給うたのである。そのお方こそ、すなわち、文鮮明先生である。」(三八ページ)

「イエスは、アブラハムの血統的な子孫たちに再臨されるのではなく、彼らの遺業を相続して実を結ぶ国に再臨されることを我々は知り、また、実を結ぶ国は、東方の国の中の一つであることも知った。古くから、東方の国とは韓国、日本、中国の東洋三国をいう。ところがそのうちの日本は代々、天照大神を崇拝してきた国として、更に、全体主義国家として、最臨期に当たっており、また、以下に論述するようにその当時、韓国のキリスト教を残酷に迫害した国であった。そして中国は共産化した国であるため、この二つの国はいずれもサタン側の国家なのである。したがって端的にいって、イエスが再臨される東方のその国は、すなわち韓国以外にない。」(五八六ページ)

 どちらが神の言葉だろうか?