http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/8586/kakorogu3.html

一部転載。


文氏の路程について 投稿者:モーリス 投稿日:2003/05/10(Sat) 06:23 No.2767

文氏の路程について

なにせ離教して相当程度年月が過ぎておりますので、これからの論議が的外れになるかもしれないことをお断りしておきます。また、何回かに分けてアップすることになることも。文氏の路程については、特に1960年代以前は直接的な根拠資料が乏しいのでなかなか難しい面があることはご承知いただけると思います。これを反対に言うと「何でも言える」になるのですが・・・。
疑問の始まりは幾つかあり簡単ではありませんが、まず「文氏はいつ日本に来たのか。」があります。
まず、ネット上で見られる文氏の路程(協会側)や手元にある協会関係の資料から文氏の初期の学歴を見ますと、
・13歳まで書堂で勉学され、1934年五山普通学校3学年に編入、1年間修学。1938年3月25日定州公立普通学校卒業(Tsurugai氏のページ)
・1933年雲龍学院へ通う。1934年4月雲龍学院から私立五山普通学校3学年に編入。1935年4月五山普通学校から定州公立普通学校に(4学年)に転校。1938年3月定州公立普通学校卒業。(「聖地定州」)
となっています。
1978年10月4日に発行された「統一教会史」上巻でも1934年春平北定州にある私立五山普通学校3年に編入、1935年4月定州公立尋常小学校4学年に転学、1938年3月小学校に卒業、となっています。
多分今もこれでしょう、変わっているでしょうか。

何が疑問かといいますと、今私の手元に「第2次朝鮮教育令(大正11年勅令第19号」があります。これは大正11年(1922年)2月6日に公布され昭和13年(1938年)4月1日の第3次朝鮮教育令公布まで、その当時の朝鮮における学校制度の根幹を定めたものですから、文氏もこれに該当します。その第3条では「国語ヲ常用セサル者ニ普通教育ヲ為ス学校ハ普通学校、高等普通学校及女子高等普通学校トス」、その第5条1には「普通学校ノ修業年限ハ六年トス但土地ノ情況ニ依リ五年又ハ四年ト為スコトヲ得」、5条2には「普通学校ニ入学スルコトヲ得ル者ハ年齢六年以上ノ者トス」となっています。
つまり初等教育は、今の日本の小学校制度に近かったといっても良いでしょう。そうなると、普通の朝鮮の人が6歳から入学して12歳で卒業する過程を、確かに13歳まで書堂で勉強していたという事情はあったにせよ、非常に優秀な生徒であったとされる文氏が18歳で卒業したということになります。「少し遅すぎるのではないか」と思えても不思議ではないでしょう。
実はこの後の路程と関連してくるのですが、日本統一協会の資料でも創設期の資料(「歩みこられし主の道」「地と汗と涙」)では小学校の卒業には触れていませんが、文氏の日本への出発を1939年としており、18歳小学校課程卒業では学制上それは無理でしょう。
創成期以後70年代中盤からの統一協会では大体上記のような主の路程になってきているのです。「後から分かってきたのだから1938年卒業ではないか」と考えられる方もおいでになるのでしょうが、もうひとつの論拠があります。しかも文氏の身内からの証言です。
統一協会機関誌ファミリーの1988年4月号から6月号までに文龍基氏による文鮮明氏の路程の証が掲載されています。彼は文鮮明氏の父親(文慶裕氏)の兄弟(慶裕氏は長男、文龍基氏の父親、文慶福氏は次男)の息子で、文鮮明氏には従弟にあたる人です。また、彼の父親が早く亡くなっていたので、文龍基氏は文鮮明氏の父親のもとで育っています。
彼の言葉によると「私の父は早く亡くなったので、私は文先生のお父様であられる伯父様のもとで育ちました。食事もいつも慶裕伯父様のお宅でしていました。だから、文先生の御家族とは私の物、あなたの物という区別した生活はしていなかったのです。慶裕伯父様のもとで子として育ったのです。」ということになっています。つまり生活を共にしていたわけなのです。
また、この証は1987年8月7日に大阪で行われたものですが、その際「1987年春 文先生が韓国に帰ってこられた時、幹部の方々の前で{故郷の話は彼に聞きなさい}と私の方を示しておっしゃったので、こうして招待を受け皆様の前でお話しすることになりました。」とのことで、いわば文鮮明氏のお墨付きがついた話にもなるわけです。
そして彼はこの時期について「六歳になられて書道(同時に漢文)を勉強されました。13歳にして初めて小学校にお入りになられたのです。お年もそうですけれども、とても勉強ができ3ヶ月で1年を修了し、3ヶ月で2年を修了されたのです。そのようにして3年間学んで15歳で小学校を終えられたのです。字を書いても先生は大変上手ですし、勉強もできますからどんどん成績を上げてしまうのです。小学校を卒業なされて16歳の時に、ソウルにある中学校の電気科で勉強されました。」と証言しています。
なお、掲載されている彼の話は巷にある路程とは違う内容を示していますので、興味のある方は読まれたらと思います。
これだけではなく、学制上の観点からも合わないのではないかと思われる面がでてきますが、それは次の機会にします。

Re: 文氏の路程について saito - 2003/05/14(Wed) 20:52 No.2807

]

モーリスさん、こんにちは。
丁寧な文師の少年期の修学に関する考察ですね。手間暇がかかっていそうでご苦労様です。
これを読んで感じたんですが、モーリスさんは教会サイドへ直接聴取するということは、されましたか?日本統一教会とか韓国統一教会とか。長く歩まれている大先輩とか。
よく文化人類学の中での話で、「文献を調査して、現場を調査しない」というのがあります。現場の調査のことを”フィールドワーク”と呼んで重視されているようですが。いかがでしょうか。

Re: 文氏の路程について モーリス - 2003/05/15(Thu) 00:23 No.2811

saito 様
どのようなお立場にある方かは存じませんが、ご丁寧な忠告ありがとうございました。でも「現場の調査」っていったい何なのでしょうか。統一協会や関係者が発表した資料が資料足り得ないのでしょうか。最初にお断りいたしましたように
「これからの論議が的外れになるかもしれないことをお断りしておきます。」です。この調査を始めたのは約10年前ぐらいです。「長く歩まれた大先輩とか。」とお書きのようですが、長く歩まれた先輩に何を調査しろとお考えなのでしょうか、協会の受け売りしかしない方々に。「信仰と生活第1集(多分ある時代には講論に次いで条件として読まれた本でしょうが)」のある箇所を読んで文氏の路程に何の疑問も抱かないような方々に。また、そのような調査を行う時間や暇は何も知らない一般の方々から「募金」と称して金をふんだくるかのように掻き集めてくるか、霊感商法で莫大なお金を一発勝負のように騙し取ってくる輩ならあるでしょうが。再度申し上げますが、saito 様がどのようなお立場やお考えにあるのかは知りませんが、これはある1信者だった人間が自分で出来る範囲の中で調査して提議するものとお考えください。


Re: 文氏の路程について saito - 2003/05/15(Thu) 20:50 No.2824

モーリスさん、こんにちは。

>「現場の調査」っていったい何なのでしょうか。

たとえば、長年の調査結果を綺麗にまとめて、教会本部の人に直接手渡しながら、「私は長年教会の問題を考えてました」と言えば、外へ放り出すようなことはしないと思います。少しずつ話を聞くと思いますが。
そういうところから色々な、わだかまりとか意見とかを平常心で語られれば、気持ちも少しは整理されるんじゃないかなと。
やはり、人間対人間ですから目と目で通じるものが何か見つかるのではないかと思います。
そうして友達にでもなれれば、またそれなりの情報も聞けるかも知れませんし。


Re: 文氏の路程について aibon - 2003/05/15(Thu) 21:46 No.2825


横はいり失礼します。
モーリスさん、続編期待しています。で、
>「信仰と生活第1集(略)」のある箇所を読んで文氏の路程に何の疑問も抱かないような方々に。

以前、教会員だった頃熱心に読んだものでしたが、何の疑問も抱きませんでした。まだ、お手元にその本が残っているのでしたら、ある箇所とはどの箇所か教えていただけませんか?

saitoさん、
>そういうところから色々な、わだかまりとか意見とかを平常心で語られれば、気持ちも少しは整理されるんじゃないかなと。

モーリスさんは気持ちを整理するためでなく、文師の路程を整理するために投稿してます。



Re: 文氏の路程について ラスタマン - 2003/05/16(Fri) 19:18 No.2827


“信仰と生活”か、懐かしいですね。
はっきり言って原理講論よりは心に響きましたね。

ヨハン先生、申美植先生、西川先生の講和は心に響きましたよ。
ただし、モーリスさんがおっしゃっているように教会の
公式見解とはかなり矛盾しますがね。

あとで申美植先生、西川先生の“信仰と生活”は廃刊に
なりましたが、離教問題よりも、後の公式見解との矛盾が
より問題になったのだと思います。


Re: 文氏の路程について saito - 2003/05/16(Fri) 21:31 No.2828


aibonさんへ

>モーリスさんは気持ちを整理するためでなく、文師の路程を整理するために投稿してます。

ま、そうですが、

ラスタマンさんへ

>“信仰と生活”か、懐かしいですね。はっきり言って原理講論よりは心に響きましたね。

たしかに、原理講論は堅いですね。

モーリスさんへ
色んな批判に耐えられるものこそが本物であって、つぶれて終わっていくのは、それ相応の価値だと思います。
批判はそれを完成に導くためのものとも思います。
続編があるそうですが、私も以後注文を付けるのひかえめにしますので是非、出るものは出して下さい。お願いします。



Re: 文氏の路程について モーリス - 2003/05/17(Sat) 02:24 No.2830


「げすの勘繰りか衣の下の鎧か」
saito 様へ
「色んな批判に耐えられるものこそが本物であって、つぶれて終わっていくのは、それ相応の価値だと思います。」まことにそうでしょうけれども、それをまともに聞こうとする姿勢もない輩が多いのですよ、某教団には。「聞きたくないからでしょう。自分達の優越性が揺らぐのが怖い」というような高次元のレベルではなく、調査する主体性すら放棄しているんでしょうから。「出るものは出して下さい。」聴きようによっては侮辱としか感じられないようなお言葉ですが、これもげすの勘繰りなのでしょうか。




http://blog.goo.ne.jp/kokoro2442/e/b5c524193ad755bd353ed72f212759f8


文鮮明師の京城商工時代の検証…41年卒業について


文教祖が小学校(普通学校)を卒業したのは18歳ではなく16歳(1)


http://www5b.biglobe.ne.jp/~yi1800/akasi/023.html

信仰と生命 申美植

http://www5b.biglobe.ne.jp/~yi1800/akasi/sinkousyuki/sinkousyuki_04.html

神様、私の神様李耀翰(イーヨハン)


http://www5b.biglobe.ne.jp/~yi1800/akasi/nishikawa.html

崔奉春宣教師(西川勝先生)日本伝道記 

http://www5b.biglobe.ne.jp/~yi1800/akasi/nisikawa-50.html

「日本人以上に日本を愛し、尽くしました」崔奉春(三六家庭)


西川氏が離教しているのは信者であれば誰でも知るところです。なのに、

日本開拓の碑 こんなの今頃作って本部はなに血迷ってるのでしょう。献金いくら使って作ってるのか?どこまでも、内部洗脳で価値化したいのでしょうが・・・何の価値があるって~の?