文教祖が小学校(普通学校)を卒業したのは18歳ではなく16歳(1) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

統一教会史では、文教祖が18歳で小学校(普通学校)を卒業したことになっています。
文教祖が小学校の答辞で批判的発言をしたため、そのときから警察に尾行されることになったことは「主の路程」をある程度知っている信者なら、誰でも知っていることですが、問題は『警察の尾行』が始まった年齢です。

文教祖は警察の尾行が始まったのは、16歳であると述べているのです。

『また、先生も十六歳以後は、どこでも行く先々では尾行されて、「どこで何をするのか?」と、いつも要注意人物として扱われてきたのです。それは先生のおじいさんが、一九一九年三月一日の独立運動の時、大解放運動の北のほうの代表だったからです。』
(蕩減復帰の峠を越えましょう 1995年1月19日 韓国・水沢里中央研修院)

文教祖が警察から要注意人物に指定されたきっかけが、小学校(普通学校)の卒業式だったのですから、「16歳から尾行された=16歳で小学校を卒業した=16歳からソウルに上京した」となるはずです。

そのことを裏付けるように「信仰と生活 第四集」では、小学校の卒業は1936年春となっているのです。

◇一九三六年春、定州公立尋常高等小学校(現在の中学校)六学年卒業
先生の小学校時代にね、卒業式で祝辞の時間があるんだね。父兄なんかも来て祝辞をするんだが、先生が最後に上って訴えたのが今にも分かっている。そこには警察の署長やら軍師やら校長先生やら、あらゆる地方の有志やらみんな集まっておる。「その所が私の願う所である」堂々と上って行った。「言いたい事がある」と。少年時代の今までの教育に対しての批判と、今までの先生に対する批判と、みんなやっちゃう。「どういう先生は、どういう性質がある。どういう歴史のああいう先生はどういう性質で、どういう結果になるんだから、これからこの時代の責任者はどういう心を持たなければならない」と時代批判をした。一時間近く…。それが大問題になった。小学校を卒業すると、ああいうふうになるとは夢のようだ。その時からレッテルを付けられたよ。警察の方から、日本の方から、日本に来る時はそれが引っかかったね。「思想的、これ若者として、これは…」登校証明書を受けられないや。だから先生、若者として一人で談判する。警察の署長に。その当時、韓国の警察の署長といえばね、君達が天皇陛下に会うより以上に難しい時だった。しかし、そういう決心でもってそういう訓練をする必要がある。』
(「信仰と生活 第四集」より 東京・早成寮にて語られたみ言 1965年10月8日 )

国民学校の卒業式の時、答辞の時間がありました。先生たちに答辞を読むようになったのです。その時先生が終わりになって壇上に上って訴えたことを、今も記憶しています。そこには警察所長、郡主、校長先生など、地方有志たちがみな集まっていたのです。先生はそんな場を見やりました。それで堂々と壇上に上ったのです。そして言いたいことがあります、と言って、少年時代の教育に対する批判と、今までの学校の先生に対する批判をみんなやったのです。「この先生にこんな性質がある。歴代の先生はこんな性格で、これこれの思考をするのでこんな結果の他にはならない」と言って、先生たちの批判をしました。そして時代的な批判もやって、また「この時代の責任者はこれこれの覚悟を持たなければならない」という時になってくると、これが大問題になりました。小学校を卒業する学生が、こんなことを言うとは全く考えていなかったのです。それで先生はこの時からレッテルが張られたのです。警察から注目されたのです。
(「文鮮明先生み言葉選集15巻」より 先生の東京遊学時代 1965年10月8日 日本・野方学舎)

今も忘れられないのは、その定州普通学校での卒業式の時のことです。その時は邑だったのですが、その定州邑の有志たちや多くの父兄と先生が卒業式にお祝いのために集まりました。その卒業式では、校長の訓示があって、その次にお客さんの祝辞がありましたが、その次に私が志願してその壇上に立ち、日本に対して反駁したことが、今でも忘れられません。人々がたくさん集まったその前で、そうしたことが、今も記憶に残っています。そのようなことを見れば、少年時代の気質が、普通でなかったようです。
 先生は、そのような場を望んでいました。それで、堂々と壇上に上がりました。そして、言いたいことがあると言いながら、少年時代の教育に対する批判と今までの学校の先生に対する批判をすべて言ってしまいました。「この先生はこのような性質があります。歴史の先生はこのような性格で、これこれこのような思考をしているので、このような結果にしかなりません」と言い、先生たちを批判しました。そして、時代的な批判もし、また、「この時代の責任者は、これこれこのような覚悟をもたなければなりません」と、一時間近く話したのですが、それが大問題になりました。学校を卒業する学生が、そのようなことを言うとは誰も考えることができませんでした。それで先生は、その時からレッテルが貼られたのです。警察から目星をつけられるようになりました。

(「真の御父母様の生涯路程1」より)

『今も忘れられないことは、定州普通学校の卒業式の時のことです。多くの父兄とすべての先生が祝賀するために集まったのであり、定州邑の有力者が祝賀するためにすべて集まりました。その卒業式では、校長の訓辞があり、その次に祝賀客の祝辞があったのですが、その次に私が志願して壇上に上がっていき、日本に対して反駁したことが忘れられません。そのようなことを見ると、少年時代の気質が普通ではなかったようです。』
(「文鮮明先生の教育哲学」より 1990年12月30日のみ言葉)

私が小学校を卒業する時、式場で大雄弁をしました。警察署長、郡守を前にして、「日本の者たち、ふろしき包みをまとめて行け!」と言って糾弾したのです。小学校の学生の時からそのようにしたので……。それで、警察署長に捕まえられていって、談判した人なのです。「これこれこのような内容が正しくないのに、このような場合に黙っていることができるか」。このようにして、その時からレッテルが貼られたのです。
(「文鮮明先生の教育哲学」より 1972年10月14日のみ言葉)



さらに文教祖のいとこは、文教祖が小学校を卒業してソウルに上京したのは16歳だったと証ししています。

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文氏の路程について 投稿者:モーリス 投稿日:2003/05/10(Sat) 06:23 No.2767

文氏の路程について

なにせ離教して相当程度年月が過ぎておりますので、これからの論議が的外れになるかもしれないことをお断りしておきます。また、何回かに分けてアップすることになることも。文氏の路程については、特に1960年代以前は直接的な根拠資料が乏しいのでなかなか難しい面があることはご承知いただけると思います。これを反対に言うと「何でも言える」になるのですが・・・。
疑問の始まりは幾つかあり簡単ではありませんが、まず「文氏はいつ日本に来たのか。」があります。
まず、ネット上で見られる文氏の路程(協会側)や手元にある協会関係の資料から文氏の初期の学歴を見ますと、
・13歳まで書堂で勉学され、1934年五山普通学校3学年に編入、1年間修学。1938年3月25日定州公立普通学校卒業(Tsurugai氏のページ)
・1933年雲龍学院へ通う。1934年4月雲龍学院から私立五山普通学校3学年に編入。1935年4月五山普通学校から定州公立普通学校に(4学年)に転校。1938年3月定州公立普通学校卒業。(「聖地定州」)
となっています。
1978年10月4日に発行された「統一教会史」上巻でも1934年春平北定州にある私立五山普通学校3年に編入、1935年4月定州公立尋常小学校4学年に転学、1938年3月小学校に卒業、となっています。
多分今もこれでしょう、変わっているでしょうか。

何が疑問かといいますと、今私の手元に「第2次朝鮮教育令(大正11年勅令第19号」があります。これは大正11年(1922年)2月6日に公布され昭和13年(1938年)4月1日の第3次朝鮮教育令公布まで、その当時の朝鮮における学校制度の根幹を定めたものですから、文氏もこれに該当します。その第3条では「国語ヲ常用セサル者ニ普通教育ヲ為ス学校ハ普通学校、高等普通学校及女子高等普通学校トス」、その第5条1には「普通学校ノ修業年限ハ六年トス但土地ノ情況ニ依リ五年又ハ四年ト為スコトヲ得」、5条2には「普通学校ニ入学スルコトヲ得ル者ハ年齢六年以上ノ者トス」となっています。
つまり初等教育は、今の日本の小学校制度に近かったといっても良いでしょう。そうなると、普通の朝鮮の人が6歳から入学して12歳で卒業する過程を、確かに13歳まで書堂で勉強していたという事情はあったにせよ、非常に優秀な生徒であったとされる文氏が18歳で卒業したということになります。「少し遅すぎるのではないか」と思えても不思議ではないでしょう。
実はこの後の路程と関連してくるのですが、日本統一協会の資料でも創設期の資料(「歩みこられし主の道」「地と汗と涙」)では小学校の卒業には触れていませんが、文氏の日本への出発を1939年としており、18歳小学校課程卒業では学制上それは無理でしょう。
創成期以後70年代中盤からの統一協会では大体上記のような主の路程になってきているのです。「後から分かってきたのだから1938年卒業ではないか」と考えられる方もおいでになるのでしょうが、もうひとつの論拠があります。しかも文氏の身内からの証言です。
統一協会機関誌ファミリーの1988年4月号から6月号までに文龍基氏による文鮮明氏の路程の証が掲載されています。彼は文鮮明氏の父親(文慶裕氏)の兄弟(慶裕氏は長男、文龍基氏の父親、文慶福氏は次男)の息子で、文鮮明氏には従弟にあたる人です。また、彼の父親が早く亡くなっていたので、文龍基氏は文鮮明氏の父親のもとで育っています。
彼の言葉によると「私の父は早く亡くなったので、私は文先生のお父様であられる伯父様のもとで育ちました。食事もいつも慶裕伯父様のお宅でしていました。だから、文先生の御家族とは私の物、あなたの物という区別した生活はしていなかったのです。慶裕伯父様のもとで子として育ったのです。」ということになっています。つまり生活を共にしていたわけなのです。
また、この証は1987年8月7日に大阪で行われたものですが、その際「1987年春 文先生が韓国に帰ってこられた時、幹部の方々の前で{故郷の話は彼に聞きなさい}と私の方を示しておっしゃったので、こうして招待を受け皆様の前でお話しすることになりました。」とのことで、いわば文鮮明氏のお墨付きがついた話にもなるわけです。
そして彼はこの時期について「六歳になられて書道(同時に漢文)を勉強されました。13歳にして初めて小学校にお入りになられたのです。お年もそうですけれども、とても勉強ができ3ヶ月で1年を修了し、3ヶ月で2年を修了されたのです。そのようにして3年間学んで15歳で小学校を終えられたのです。字を書いても先生は大変上手ですし、勉強もできますからどんどん成績を上げてしまうのです。小学校を卒業なされて16歳の時に、ソウルにある中学校の電気科で勉強されました。」と証言しています。

なお、掲載されている彼の話は巷にある路程とは違う内容を示していますので、興味のある方は読まれたらと思います。
これだけではなく、学制上の観点からも合わないのではないかと思われる面がでてきますが、それは次の機会にします。

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http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/8586/kakorogu3.html
※ほかにジャーナリスト山口浩著「原理運動の素顔」でも文教祖は1936年にソウルの京城商工実務学校に入学したとなっています。(証拠は卒業アルバム)



もう一度整理します。
・小学校を卒業してから警察の尾行が始まったのが16歳
・「信仰と生活 第四集」では、小学校卒業は1936年(満16歳)となっている
・文教祖のいとこは「15歳で卒業して、16歳の時にソウルに上京した」と証言


そして文教祖一家がキリスト教に改宗した年齢は「15歳」だということは、他の記事ですでに検証済みですので、もしイエスから啓示を受けたのが1935年4月17日であれば、文教祖がまたキリスト教に改宗する前の出来事となってしまいます。
キリスト教徒でもないのにイエスを知っていたのは、おかしな話です。
なぜなら文教祖がイエスの啓示を受けたとき、「なぜ本物だとわかったのか?」というテレビインタビューの質問に「イエスの生い立ちから十字架に架かるまでのイエスの生涯を映像で見せられた」と答えているため、もし聖書をある程度知らなければ、それがイエスかどうか判別できないはずだからです。
(そのときのインタビューで文教祖は「イエスは白人で韓国語を話した」と答えています)
ですから1935年に故郷である定州の猫頭山でイエスから啓示を受けたと言うのは嘘(捏造)だということがわかります。
(参照:文教祖がキリスト教に改宗したのは10歳ではなく15歳
文教祖は最初に霊界で会ったイエスは白人だったとテレビインタビューで語った

文教祖は80年代までは、イエスからの啓示は1936年4月17日(16歳)だと話していましたし、出版物や裁判の証言でもそのように答えていました。
そうすると15歳でキリスト教に改宗してすぐに1936年の春にソウルの中学校に進学したとすると、イエスからの啓示はソウルで受けたことになります。
文教祖はソウルに行ってすぐに「イエス教」というキリスト教の異端に傾倒しだしましたから、イエスから啓示を受けたのは「イエス教」という異端宗教に入信したての頃ということになるでしょう。
つまり1936年4月17日ということです。

文教祖が入信した異端の「イエス教」は毎年4月17日をイエスの復活節(イースター)と定めていたようです。
(参照:文鮮明教祖はイエスから啓示を受けた日「復活節は4月17日」だと思い込んでいるらしい

文教祖が最初の妻との結婚式はイエス教の牧師に主礼を依頼しているので、その当時、文教祖はまだイエス教信者だったので、下記のみ言葉からイエス教での「イエスの復活節」は毎年4月17日だったということがわかります。
(キリスト教が定めた1944年のイースターは4月9日、1945年は4月1日)

『結婚する日時を決めたのに、結婚する一週間前に妻(※崔先吉)の父が亡くなりました。四月十七日は復活節であるため、やり過ごしました。』
(「真の御父母様の生涯路程1」より)

その年の復活節と合わないのです。
文教祖は統一教会を創立した後も、この「イエス教の復活節4月17日」をかたくなに守ります。
ですから文教祖がイエスから啓示を受けたのは異端のイエス教に入信してからということになるのです。
文教祖にとっては「4月17日」が復活節だったのです。

『一九七七年四月十七日が本来、イエス様の復活節です。この世はこれを知らずにいます。私たちは、今まで四月十七日をずっと守ってきました。』
(1977年4月17日のみ言葉)
※キリスト教が定めた1977年の復活節は4月10日

『イエス様の復活節は、本来四月十七日ではありませんか。』
(「真の家庭復活」と「世界解放の日」を宣布 1992年8月18日 ベルベディア)
※キリスト教が定めた1992年の復活節は4月19日

『きょうは何の日ですか? 「復活節」です。一九九八年四月十七日の「復活節」です。復活節なので、このような話をするのです。』
(「復活節」のみ言葉 1998年4月17日)
※キリスト教が定めた1998年の復活節は4月12日


ですから統一教会が主張している「1935年4月17日に定州・猫頭山でイエスから啓示を受けた」という内容は誤りなのです。
統一教会はわざわざ1936年4月17日や1935年4月17日がキリスト教の復活祭の日にちと合わないということをいちいち弁明する必要がないのです。
なぜなら毎年4月17日こそが異端イエス教の復活節であり、イエス教の信者であった文教祖はそれを守っただけなのです。
統一教会広報は言い訳として「復活祭の週の朝」だとか「1936年ではなく1935年だった」という必要は無いのです。

統一教会は異端イエス教の復活節4月17日を継承しているのですから、それを堂々と主張すればいいだけのことです。



<結論>
文教祖がイエスから啓示を受けたのは、異端イエス教を信仰しはじめたころの1936年4月17日ソウルということになります。





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