仏教徒であれば、胸の前に手と手を合わせて
「なむなむ」したことはあると思いますが🙏
そもそも。なんで手と手を合わせるのか疑問に思ったので
尊敬する和尚さんと語りあってみました。
その①
手というものを胸の前で合わせて見せることで
何も武器を持っていません。
という敵意がないことを示すためではないだろうか。
その②
手の置き場や、やり場が「胸の前」だと安心する。
また手と手が合うことでより安心度が上がる。
人の心理的な行動。
その③
仏さまに対する敬意の気持ちの表れ。
仏様を前にして「挨拶」みたいなもの。
手と手を合わせている間は「目を瞑ってお願い事」をするのではなく
仏さんと繋がることが目的なので「仏さんの方を見る」のが正しいのだとか。
ということで、
仏さんを見ていなければいけないので、
手と手を合わせながら頭を下げる行為。
これは間違いなのだとか。
頭を下げる時は頭を下げるだけで、
なむなむの手は外してOK。
両方やる意味はないのだが。
いつしか、両方とも合わせワザのようにやっている宗派もあるということ。
両方やれば、よりご利益があって良さそうという発想になったのは
丁寧なのか。丁寧じゃないのか🤣
もしかしたら欲張りの人間だからノリ発想なのか。
右の手が清らかで
左の手が不浄(汚い手)
清らかな手と汚い手を合わせて綺麗にしましょう。
のような発想をしている宗派や教えもあるかもしれないけど。
そもそも汚い手と綺麗な手を合わせたら「綺麗な手も汚くなるやん」🤣
ということで、この発想はちょっと納得ができない。
私がこんなことに疑問に思ったのが
人の「手」の力は凄いパワーがあるんじゃないかと思ったからで。
仏教で「人の手」について何か書いてあるんじゃないかと思ったのです。
私は人の手が好きです。
好きな人の手は触っていたら安心するし。
「手に愛を感じる」
手を繋いでくれる人がいないときは
自分の手と手を合わすだけでも
どこかホッとする。
撫でる仏像さんがあったりするのは
(ビリケンさんとかもそうかな)
触ると手から「ありがたい気」みたいなものを感じるような気がするからだと思う。
また、不思議な事に
自分の手と手を合わせることで「ありがとう」という気持ちになる。
だからご飯を食べる前の「頂きます」も手を合せるのは
「ありがとう」なんだと思う。
私の感性的には
「手を合わせることで、ありがとう」
という気持ちを表現しているのではないかと思った。
「ありがとう」は仏教の本質の「縁」に繋がる。
手から気持ちが伝わるというのは、間違いと思う!
最後まで読んでくれてありがとう🙏
ご縁に感謝![]()

